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ああ、劇しい嵐。よい暴風《あらし》。雨
春と冬との変りめ
生暖い二月の天地を濡し吹きまくる颱風。
戸外に雨は車軸をながし
海から荒れ狂う風は鳴れど
私《わたくし》の小さい六畳の中は
そよりともせず。
温室の窓のように
若々しく汗をかいた硝子戸の此方には
ほのかに満開の薫香をちらすナーシサス
耳ざわりな人声は途絶え
きおい高まったわが心と
たくましい大自然の息ぶきばかりが
丸き我肉体の内外を包むのだ。
ああ よき暴風雨
穢れなき動乱。
雨よ
豊かに降り濺いで
長い日でりに乾いた土壤を潤せ。
嵐よ
仮借なく吹き捲って
徒らな瑣事と饒舌に曇った私の頭脳を冷せ。
春三月 発芽を待つ草木と
二十五歳、運命の隠密な歩調を知ろうとする私《わたくし》とは
双手を開き
空を仰いで
意味ある天の養液を
四肢 心身に 普く浴びようとするのだ。
二月十六日
(大暴風雨の日)
春の日影 Feb. 23rd.
巨大な砂時計の
玻璃の漏斗から
刻々をきざむ微かな砂粒が落るにつれ
我工房の縁の辺ゆるやかに
春の日かげが廻って来る。
ささやかな紙の障子は
ゆるがぬ日に
耀き渡り
マジョリカの小壺に差した三月の花
白いナーシサス、薄藤色の桜草は
やや疲れ
仄かに花脈をうき立たせ乍らも
心を蕩す優しさで薫りを撒く。
此深い白昼の沈黙と
溢れる光明《ひかり》の裡に座して
私《わたくし》、未熟なる一人の artist は何を描こう。
空想は重く、思惟は萎えて
ただ 只管《ひたすら》のアンティシペーションが
内へ 内へ
肉芽を養う胚乳の溶解のように
融け入るのだ。
L、F、H
子供らしい真剣で
白紙の上に
私は貴方の名と
自分の名とを書きました。
細い桃色鉛筆で
奇怪な分数を約すように
同じ文字を消して行く
RとR、UとU、KとKと。
残った綴字はいくつあるか
L、F、H、LFH……
ああ 私はH、H! 何と云う暗合
内心に深く沈み込んだ私の批難が
此処に現れ出ようとは。
貴方に対する無言の厭悪が
稚いこの遊戯の面に現れ出るとは!
L、F、H、LFH、
数えなおし、私は笑を失った。
かりそめのたわむれとは云え
何と云うことか。
私は 笑を失った。
底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
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