海辺小曲(一九二三年二月――)
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)私《わたくし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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海辺の五時
夕暮が 静かに迫る海辺の 五時
白木の 質素な窓わくが
室内に燦く電燈と
かわたれの銀色に隈どられて
不思議にも繊細な直線に見える。
黝みそめた若松の梢に
ひそやかな濤のとどろきが通いもしよう。
午後五時
いまだ淡雪の消えかねた砂丘の此方
部屋を借りる私の窓辺には
錯綜する夜と昼との影の裡に
伊太利亜焼の花壺
タランテラを打つ古代女神模様の上に
伝説のナーシサスは
純白の花弁を西風にそよがせ
ほのかに わが幻想を誘う。
新らしい私の部屋
新らしい六畳の小部屋
わたしの部屋
正面には
清らかな硝子の出窓をこえて初春の陽に揺れる
松の梢や、小さな鑓飾りをつけた赤屋根の斜面が見える。
左手には、一間の廊下。
朝日をうけ、軽らかな息を吸いつつ
此処に立って髪を結ぶ私《わたくし》の嬉しさ。
机に居ても 空は見え
畳に座しても
大どかな海の円みと
砂のかおりが
頬のあたりに そっと忍びよって来る
ああ、
新しい部屋のうち
新らしい人生へのときめきを覚えて
見えない神に笑みかける私の悦びを
誰に伝えよう。
夜の来た硝子の窓には
背に燈火を負う私の姿が
万年筆の金冠のみを燦然と閃かせ
未生の夢に包まれたように
くろく 静かに 写って居る。
*
ああ、海! 海※[#感嘆符二つ、1−8−75]
広い懐の大海
お前の際限ない胸を張れ!
濤をあげよ。
そして、息をのむ大洪水の瞬下に
此あわれに 早老な女の心を溺れ死なせ。
波頭に 白く まろく、また果《は》かなく
少女時代の夢のように泡立つ泡沫は
新たに甦る私の前歯とはならないか。
打ちよせ 打ち返し轟く永遠の動きは
鈍痲し易い人間の、脳細胞を作りなおすまいか。
幸運のアフロディテ
水沫から生れたアフロディテ!
自ら生得の痴愚にあき
人生の疲れを予感した末世の女人には
お身の歓びは 分ち与えられないのだろうか
真珠母の船にのり
アポロンの前駆で
生を
双手に迎えた
幸運のアフロディテ
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