「達」は四日目の朝戻って来た。
 あちらに勤める様になってからまだ一度もつづけて暇をもらった事がないので快く許してもらえた事を話し肩に掛けて来たカバンの中から肉のかんづめやら西瓜糖やらを出し、果物のかなり大きい籠まで持って来た。
 お節は一言云っては涙をこぼして居た。
 隣りで、「達」の声を始めて聞いた時栄蔵は、顔に血がのぼるほど一種異様な感じに満ちた。非常な喜びが心の中をはね廻りながらその陰には、口に云われない不快な感じがあった。
 その不思議な感情を押えるために達が入って来た時栄蔵は、額をしわだらけにして目を瞑《つぶ》って居た。
 父親が眠って居るのかと思ってそうっとまた出て行こうとする達を、
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「達か、
 戻ったんか。
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と呼びとめた。
 思いがけなかったので、達は少しあわてながら又元に戻って、
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「只今。
 どんななんですか、
 おっかさんに手紙をもらったのでびっくりして来ました。
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と云って父のげっそりとして急に年とって見える顔をのぞいた。
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「ほんにそうなんか、
 出されて戻ったんやないか。
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 達は真赤になって、母親に話した通り父の納得《なっとく》の行くまで弁解した。
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「そうか。
 そんならいいけど、
 先達っての事があるさかいな、
 気をつけんといかん。
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 栄蔵は、機嫌をなおして達の持って来たリンゴのさくさく舌ざわりのいいのを喜んで、お節の止めるまで食べた。
 リンゴを食べながらも栄蔵は、どうしても達が只戻ったのではなさそうだと想った。
 いかほど考えても一週間十日の暇のもらえる筈もなく、お節が来いと云ってやる筈もない。
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 彼は巧く私を胡魔化す積りと見える。
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 どう考えてもそうとしか思えないので、栄蔵はわざわざお節にお前ほんとに手紙で来いと云ったのかと尋ねたりした。
 お節も保証したけれ共栄蔵には解せなかった。
 達の若々しい体をながめながら一つ事ばかりを思って居た。
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「お前ほんに大丈夫なんか。
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 夜になるまで四五度尋ねて、
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 お父さんどうしてそうなんです、
 そんなに気になるならきいて御やりなさい。
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と云われるほどだった。
 その次の日から、一つ寝返りをうつにも若い男のゆったりした腕が、栄蔵の体の下へ入れられ、部屋の掃除などと云うと、布団ごと隣の部屋へ引きずって行く位の事は楽々された。
 お節はこの力強い手代りをいかほどよろこんだか知れない。
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「ほんにお前もいい若衆に御なりや。
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 惚れ惚れと鴨居に届きそうに大きい息子の体を見てお節は歎息する様な口調で賞めた。
 たまに見る息子は非常に利口に、手ばしこく、物分りがよく見えた。
 ちょくちょく見舞いに来る者共に一々達の事を吹聴して、お世辞にも、
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「いい息子はんを御持ちやから貴方はんも御安心どすえなあ。
 年を取っては、子のよいのが何よりどすさかい。
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と云われればこの上なく満足して居た。
 悲しい中にも後楯を得たお節は、前よりも一層甲斐甲斐しく何でも彼でもきり廻した。
 栄蔵は、今まで、自分の心にこんな感情があるとは夢にも思わなかった或る感情に悩まされ始めた。
 胸の張った、手足のすらりとし高い、うす赤い達の体が自分の傍にあると非常な圧迫を感じた。
 一つ毎に、白い三日月《みかづき》のついた爪、うす紅の輪廓から、まぼしい光りの差す様な顔、つやつやしい歯、自分からは、幾十年の前に去ってしまった青年の輝やかしさをすべて持って居る達を見る毎に押えられないしっとが起った。
 親として子の体を「やきもちやく」と云う事は実に有得ない事である。
 けれ共衰弱しきって居る栄蔵には、前後の考えもなく只、うらやましかった。
 斯う力強いものが目の前にあると余計自分の命が危くなる様で、なるたけ、そばによせつけなかった。
 何が気に入らないか教えて呉れと達が云っても返事もせず、体を動かしてもらう時、少し下手だと云っては、物も云わず、平手で達の手や顔を打った。
 もうむずかしいと思えばこそ達はその病的な叱責にあまんじて居た。
 達は、父の不快の原因をいろいろと考えたけれどもまさか、自分の肉体が、父の感情を害して居るなどとは思いつき様もなかった。
 発作的に息子を打って、そのパシッと云ういかにも痛そうな音をきくと、始めて我に帰った様になって、口をキーッと結んで打た
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