事があっても、口に出して、
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「そんな事をしてくれるな。
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とは、どんなにしても云えなかった。
 何かいざこざが起ったりすると、目顔ですがるお君を見向きもしないで、盲《めくら》滅法に、床屋だの銭湯に飛び込んだ。
 そうも出来ない時には、部屋の隅にかたく座って、眼も心もつぶって、木像の様に身動きさえもしなかった。
 只、専ら怖れて居ると云う様にして居た。それだから恭二自身も、いざとなった場合、はっきり、
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 私が不賛成です。
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と云い切れるかどうかが疑問であったし、お君も亦、頼む夫が、ふらりふらりして居るので、余計、取越苦労や廻し気ばかりをして居た。

        (五)[#「(五)」は縦中横]

 烈しい風がグーン、グーンと吼えて通る。黄色い砂が津浪の様に押寄せて来ては栄蔵の鼻と云わず口と云わずジャリジャリに汚して行く。
 ややもすれば、飛びそうに浮足立って居る、頭に合わない帽子を右手で押え片方の手に杖を持って、細い毛脛を痛いほど吹きさらされながら真直な道を栄蔵はさぐり足で歩いて行った。
 転ぶまい、車にぶつかるまい、帽子を飛ばすまい、栄蔵の体全体の注意は、四肢に分たれて、何を考える余裕もなく、只歩くと云う事ばかりを専心にして居た。
 肩や帽子に、白く砂をためて家に帰りつくと、手の切れる様な水で、パシャパシャと顔や手足を洗うと栄蔵は、行きなりお君の前に座って、懐の煮〆めた様な財布の中から、まだ新らしい十円札を出してピタッと畳に起[#「起」に「(ママ)」の注記]いた。
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「どうおしたのえ、それ。
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 お君は、びっくりしてきいた。
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「川窪はんで、今月の分にとお呉れやはったんや。
 来月は、どうなるんやか私は知らん。
「何故?
「国に貸したものがあるさかい何の彼の世話やいてもろうとる、あの役場の馬場はんと一緒になって、幾分なりと入れさせる様にすれば、それから裂いで廻してやろ云うてなはるんや。
「そいならあの新田の山岸はんの事ったっしゃろ。
 あそこの旦はんと父はんとは知合うてやもん、何でもない事ってっしゃろ。
「あの先の主人の政吉はんとは知っとるが、この頃では、東京の学校を卒った二番目の息子が何でもさばいて、
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