ていた時分には、よく夜ひとりで近所の映画を観た。部屋に友達を一人でおいてやるためには外へ出なければならなかった。あっちは一時間半ぐらいで循環する。私のよく行ったところは小さい映画館だもので、下の食糧品店は夜になるとすっかり暗く閉っている。わきの方にチラチラとイルミネーションのついた看板が淋しく一二枚出ている狭い入口があって、そこから階段をあがって行くと、二階が映画館になっているのであった。
 冬だと、誰でも靴の上にもう一つ重ねてフェルトの厚ぼったい防寒靴をはいて外を歩くのだが、ところによると映画館でもそれを脱がなければならないところがある。そして、下足に預ける。皆がそれをやるからひどい混雑でいやな思いもする。近所のその映画館は小さくて、きたないかわり、防寒靴をはいたままでよかった。それがたいへんに気易い。切符を買って、入るとそこが広間の待合室で、真中に緑色の縮緬紙の大きな蝶結びをつけた埃っぽい棕梠の鉢植が一つ飾ってあって、壁に沿って椅子が並べてある。
 どんなすいた晩でも、そこでは七八人の楽師が待っている人のために音楽を奏していた。或る晩、それらの楽師たちが第九シムフォニーをやっていた
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