から出てゆけと云ったのを知って、母のジェニファーは、子供のためにその結婚を断念しようとする。その懊悩を眺めて、お祖母さんは、ジェニファー、そんな苦痛が堪えられるものではありませんよ。一生のうちにはひとの思惑など考えずに決心しなければならないときがある。今がおくれればお前の一生は、とりかえしがつかない。さア、早く、ケーニッヒさん、タクシーを大至急。と娘を押し出してコルベット卿がロンドンを出るのを止めさせにやる。こういう場面で、私たちのまわりの現実にありふれた年寄りは、マア、お前、店だってこんなに流行《はや》っているのに今更何も云々とか、もう年ごろの娘がいるのにとか、とかく云うであろう。ジェニファーの立場にいる女は、こうして多くの場合二面にぶつかるものをもたなければならない。それにひきくらべて、と、日本の女のひと、特にジェニファーに近い年ばえの女のひとが、この映画の祖母のわかりよさを愛すとすれば、そのことのなかに、一言にしてのべつくされない今日の女の生活にたたまれている感情のかげがあるわけである。
でも、私は、このお祖母さんだっていくじがないと思う。物わかりがいいところまで行っていてくれはしないと思う。イレーネの心に入ってきいてみれば、母の新しい良人に感じる憎悪を、お祖母さんが只一くちに利己主義だと云っているのをもしきいたとしたら、どんな悲しさに号泣することだろう。大人の世界の思いやりなさを憎むだろう。イレーネにすれば、利己主義《エゴイスト》と名をつけられて、承知出来るような心の動機で、気が狂わんばかりになっているのではない。これまで自分の心にあふれていて、その要素はいろいろな愛情を未熟に熱烈にひとっかたまりにぶつけていたものが失われると思いこんでいるから苦しいのであるし、その無我夢中の苦しさ、その半狂乱に、云うならばむすめ心もあるというものだろう。それと一緒に、日頃の紋切型の教育が教えこんでいる貞操という考えの混乱もおこって、彼女は啜泣きながらお祖母さんの手にすがって、「ねお祖母さん、じゃ人は一生に二度人を愛したり結婚したり出来るものなの? おお! では貞操っていうのは、どういうものなの?」ときくのだけれど、この大切な瞬間のお祖母さんはその経験ふかい白髪にかかわらず、さながら大きい棒パンのようにただ立って、切なげな表情をして、或る意味で人生の瀬戸ぎわに立っている孫娘にくりかえして云えることと云えば、赤坊の時分から唇に馴れた「さアおやすみ」という言葉だけである。製作者はイレーネを大切に扱っていない。芝居はさせているが、人間の心にふれて大事に見ていない。だから、自殺までしかかったこの娘が助け上げられたボートの上で、「ママのためにこのことを云わないでね」と優しさをこめて云っても、本当の心の中で、あれだけの苦悩と混乱がどうしずまり、多難でいりくんだ愛というものについてどうわかったところが出来てのことだろうかと、その点は全く彼女のためにも、母のためにもたよりない。
母のジェニファーが、イレーネの混乱にまけて結婚を断念し、お祖母さんの言葉で、又それなり動くところも、その人生での経験や年配にてらして単純すぎる。製作者がこういう中年の美しい独身の母の心理に興味をもつなら、それとして、もっと粘って追究すべきであったろう。母と娘との間に、女として対立の刹那もあるわけであろうから。小説的な捉えかたかもしれないけれども、苦しんでいるイレーネが、自分の悶えを皮相的利己主義だと片づけて云われているのを洩れ聞くところから、その心のたたかいがはじまり母ジェニファーの成熟とババの明るい自然さと絡んで展開されて行ったら、この「早春」のウファ映画によくつき纏《まと》っている感傷性とは違った世界が描き出されたのではなかろうか。
その日は雨降りだから、すいているだろうと思って昼間の武蔵野館へ行ってみたのであったが、一杯のいりであった。たくさんの女のひとが熱心にみている。ぴったりと吸いよせられて、その肩のあたりや横顔をぼんやり浮上らせている列にそって顔から顔へ視線が行くと、これらの心がどんな気持で観ているであろうと、梅雨のいきれがひとしお身近に感じられた。若くて寡婦になったひと、その良人の肖像は幼い娘や息子に英雄として朝夕おがまれているばかりでなく、周囲からもそのように見られ、そう見ているものとして残った妻の心も一応きめられている沢山の女のひとの暮し。そういう人も、やはりこの「早春」を見に来ているのだろう。自分たちの遠いようで近い明日というものの中においてみて、これは今日のどんな感情をおこさせるであろうか。大した傑作とは云えまいこの映画が、その感情や智慧を中途半端に運ばせている芝居にも猶かつこの様にその心と眼とをひきつけるものを含んでいる女の生活とは、現実においてど
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