にくりかえして云えることと云えば、赤坊の時分から唇に馴れた「さアおやすみ」という言葉だけである。製作者はイレーネを大切に扱っていない。芝居はさせているが、人間の心にふれて大事に見ていない。だから、自殺までしかかったこの娘が助け上げられたボートの上で、「ママのためにこのことを云わないでね」と優しさをこめて云っても、本当の心の中で、あれだけの苦悩と混乱がどうしずまり、多難でいりくんだ愛というものについてどうわかったところが出来てのことだろうかと、その点は全く彼女のためにも、母のためにもたよりない。
 母のジェニファーが、イレーネの混乱にまけて結婚を断念し、お祖母さんの言葉で、又それなり動くところも、その人生での経験や年配にてらして単純すぎる。製作者がこういう中年の美しい独身の母の心理に興味をもつなら、それとして、もっと粘って追究すべきであったろう。母と娘との間に、女として対立の刹那もあるわけであろうから。小説的な捉えかたかもしれないけれども、苦しんでいるイレーネが、自分の悶えを皮相的利己主義だと片づけて云われているのを洩れ聞くところから、その心のたたかいがはじまり母ジェニファーの成熟とババの明るい自然さと絡んで展開されて行ったら、この「早春」のウファ映画によくつき纏《まと》っている感傷性とは違った世界が描き出されたのではなかろうか。
 その日は雨降りだから、すいているだろうと思って昼間の武蔵野館へ行ってみたのであったが、一杯のいりであった。たくさんの女のひとが熱心にみている。ぴったりと吸いよせられて、その肩のあたりや横顔をぼんやり浮上らせている列にそって顔から顔へ視線が行くと、これらの心がどんな気持で観ているであろうと、梅雨のいきれがひとしお身近に感じられた。若くて寡婦になったひと、その良人の肖像は幼い娘や息子に英雄として朝夕おがまれているばかりでなく、周囲からもそのように見られ、そう見ているものとして残った妻の心も一応きめられている沢山の女のひとの暮し。そういう人も、やはりこの「早春」を見に来ているのだろう。自分たちの遠いようで近い明日というものの中においてみて、これは今日のどんな感情をおこさせるであろうか。大した傑作とは云えまいこの映画が、その感情や智慧を中途半端に運ばせている芝居にも猶かつこの様にその心と眼とをひきつけるものを含んでいる女の生活とは、現実においてど
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