ために云わないでね」「ああママは結婚したって、やっぱり私たちのママよ!」姉妹は再び泣き笑いながら、擁きあった互の頬を重ね合うところで、この物語は終っている。
 年ごろの娘心と母の恋愛との感情のもつれが描き出されているところが、この映画へ多く女の人の注意をあつめていると思う。イレーネの母は、四十歳前後の年ごろであろう。女の厄年というものを日本の云いならわしでは十六とか三十三とか云って、それにはその年それぞれの理由から、様々の危期もあるだろうが、娘の十五、六という年と母の四十歳前後という年とが、或る事情のもとで重なると、女性の生涯の場面としてそこに独特なものが湧き上る事が少くない。ゴーゴリが「検察官」に描き出している市長夫人と、その娘とは、その間の隠微なものに何と鋭い針をさしているだろう。女としての咲きかかった花の美しさ、自覚の底に揺れ揺れている娘の感覚と、女としての夕やけの美しさ、見事さ、愁いと知慧のまじりあった動揺の姿とが、どんな人生の絵をつくり出すかということは、情痴の一面からではあるがモウパッサンが「死よりも強し」のなかなどで描いている。
「早春」のイレーネは長い冬から突然芽立って来たばかりの蕾のような感情の猛烈さ、程よいという表現を知らない荒っぽさで、父への愛、母への愛の自分で知らない嫉妬にめくらになるのだが、私は一人の観客としてこの映画に堪能しないものをのこされた。芸術的な感銘で云えば、すべてのシチュエーションが、感情でも、何でも中途半端の上へきずき上げられている。母のジェニファーは、ほかならぬ女相手のしかも衣裳屋として成功し、立派な店をも持っているからには、純情であろうと十分この世の良識はそなえている筈ではないだろうか。二人の娘たちに対して、受け身に、曖昧に、謂わばイレーネに見つけられたという工合でのモメントにおいて、自分の恋愛や結婚を語らないでも、もっと本当の愛情からの娘たちへわからせてゆく知慧の働きはあったと思う。働いて、たたかって、そして子供らを愛して来た女は、それだけのものをいつしか身につけているのではないだろうか。お祖母さんがそのものわかりよさで、好評を得ているようである。それもわかると思う。云わばこの太った白髪のお祖母さんとババだけが、こんがらかりの中で正気な心持でいる人たちなのであるから。イレーネが気ちがいじみた程の様子でコルベット卿にこの家
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