後のいきさつを題材としている。テーマは、革命的な労働者は次々ひっこぬかれてダラ幹ばかりのこされた東交の中にでも、いろいろなやりかたでその活動を年中警察に妨害され苦境にいる無産者托児所の中にでも人民が自分たちの生活と職場を守り、権力とたたかってゆこうとしている意欲は決して潰滅しきっているのでないことを描こうとしたものである。主要な人物は無産者托児所の何人かのタイプのちがう女性たちである。主人公ともいうべき人物はその托児所の主任※[#「女+保」、70−5]母として働いているひろ子である。ひろ子の良人の重吉は革命的活動家として検挙され獄中生活におかれている。この小説に描き出されている様々の情景はすべて――東交某車庫の集会、托児所生活の雰囲気、市ヶ谷刑務所面会所の風景、特高警察の乱暴そのほか、みな現実のうちから作者としての生活的実感を添えて切りとられて来ている断片である。作者は、当時の社会現実をみたしていたリアルな諸情景を、人民の階級的能動性に加えられる暴圧とそれへの抵抗という一つのつよい歴史的テーマに統一して表現しようとしている。活動の安定を失いはじめている托児所へ出入するようになった臼井という、いかがわしい経歴の若い男が大衆の前に全身をあらわすことのできない党というものへの好奇心や畏怖やを利用して、未熟で正直な若い※[#「女+保」、70−13]母タミノを、意味深長なヒントで自分にひきつけようとしている過程、それに対するひろ子の不信と警戒の描写は、当時の各組織内に挑発者が侵入してゆく方法や女をひっかけてゆく方法の、小規模ながら一典型である。いろいろな組合わせで特徴のあらわれている会話の調子も、一九二八・九年ごろからこの作品のかかれたころまでの、左翼活動家たちのものの云いかたである。警察の特高と※[#「女+保」、70−17]母たちとの応酬も短いうちにティピカルなものを示している。重吉対ひろ子、臼井とタミノの対照で、階級的な愛情の問題にもふれられている。正面から階級闘争をとりあげているという意味で、この「乳房」は、正統的なプロレタリア文学の作品として、公表されることのできた最後の作品であったということができる。プロレタリア文化、文学団体は前年に解散してしまっていて、文学の面ではもうそのころ没階級的なリアリズム論が氾濫していた。武田麟太郎の市井的のリアリズムと、島木健作の凄みズムと亀井勝一郎その他の日本ロマン派と入りみだれていた。この「乳房」が、作家にとって数年をけみしながらいわばはじめて芸術作品らしいリアリティーをもって完成された作品であったと同時に、それが客観的には従来の意味でのプロレタリア文学の最後の一篇として存在したことも意味ふかいことである。
「乳房」は一般に好評であった。ただ、ブルジョア文学の読者の間には、わかりにくい、むずかしい、という批評があった。「乳房」に即して、このむずかしいという批評を分析してみると、それは作者の表現の到らなさというよりも、より多く当時公表された小説がめぐり合わせている検閲の制約によっている。『中央公論』へ発表されたときには、警察関係の部分にいくつもの伏字があった。そんな工合であったから当時運動に無関係に生活している人々の実感には、働きかけることの鈍いちょっとした暗示、うらがえしから表現されている技術。そういう点が、ブルジョア小説の言葉を惜しまず語りつくす手法になれた読者にむつかしい感じを与えた。また、「乳房」一篇のはじめから終りまで流れとおしている感情の緊張も、ブルジョア小説の緩徐調に配合されているところどころのヤマの緊張より、はるかに密度のたかいものである。その緊張に共感してゆくにつれ読者の心はひきしめられ、精神がしまってゆく。その感覚は、文学に習慣づけられていた有閑のくつろぎと反対な性質のものである。「乳房」は白昼の光線にてらし出された生活の上にリアルな闘いのいきさつが展開されているのである。一時の、クライマックス的事件のスリルの描写としてではなく。人民と権力との抗争と現実がこんにちにおいてもそうであるとおり、毎日、いろいろな形に細部を変えながら、しかしきのうよりきょうへ、そして明日へと根づよく断続されてゆく、そのリアリスティックな人民の幸福への闘争の精神が「乳房」の基調となっている。
「乳房」は翻訳されてソヴェト同盟から出版されている世界革命文学の選集に採録された。

        「風知草」について

 わたしがプロレタリア文学運動に参加したのは一九三一年一月のことであった。したがって、わたしは計らずも日本の人民生活のすべてとその解放運動がファシズムの波の下にひしがれはじめた時期と時を同じくして、その怒濤の下に身をさらすことになった。階級的作家として転換してから理論的にも創作能力においても未成熟のまま高波とたたかってゆかなければならなかった。一九三二年から一九四五年八月十五日までに、わたしがともかく作品を発表することのできた時間は、三年九ヵ月あまりしかなかった。一九三八年(昭和十三年)から三九年の半ばごろまで作品発表を禁じられていたわたしは、翌一九四〇年いっぱい精力的に執筆すると、次の一九四一年(昭和十六年)一月から再び作品発表を禁じられた。この禁止は、日本の侵略戦争の拡大にともなったもので、十三年の折のように、ある期間で、解かれるかもしれないという可能性の見えないものだった。戦争が終らなければ作品の発表禁止もとけないとわかったことであった。一九四五年八月十五日が来てもその年の十月に治安維持法が消滅するまでは、すべてのジャーナリズムがもとのプロレタリア作家の作品をのせることに躊躇した。これは、それまでの言論出版制圧が、どれほどひどい文化の萎縮をもたらしていたかということの証明になる。一九四六年一月にいち早く創刊・復刊された諸雑誌の創作欄が戦争協力作家でなくて、しかもプロレタリア作家でなくてポスター・バリューのある作家を求め、永井荷風へ一致して、その作品が各紙を飾ったのも、日本文化、文学史の特色をもつ一現象であった。あしかけ五年間、全く作品公表できなかったわたしは、一九四一年十二月八日真珠湾の翌日、戦争非協力の共産主義者として検挙された。一九四二年三月巣鴨の未決へ送られ、その年の七月二十日すぎ、熱射病のために危篤に陥って、帰宅した。不思議に生命をとりとめた。しかし、視神経、言語の神経、心臓と腎臓が破壊されて、視力恢復までに一ヵ年以上かかった。心臓と腎臓の機能障害は、こんにちわたしの健康上致命的な弱点としてのこされている。
 作者の立場は、自身が人民的であり戦争に非協力であるというばかりでなく、非転向で十余年の獄中生活を送っている共産党員である良人の妻であるという客観的事情から決定されて、権力との妥協点がなかった。一九四〇年(昭和十五年)十月に執筆した「朝の風」一篇は、もうこの作者が、小説としてかきたい主題は書くことのできない社会的情況にまで軍事統制が進んでいることを明瞭に示した。客観的な意味で、書きたいテーマはかけなくなっていた。出征という一つの客観的事実を扱っても、それは人間が平常の状態を失いつつある生活現実であってはいけなかったのだから。――出征は勇躍万々歳[#「勇躍万々歳」に傍点]でなければならず、人民のつつましい生活の中から働く男、経済の支柱が奪われてゆくに際しての家族たちの限りない不安。夫婦、親子、兄妹の愛さえも、それは天皇と国家への捧げものと見られなければならず、そこには別離の愛惜と生命への不安と絶対的な権力への疑問抗議は、当時の日本人の心に存在してはならなかったのであった。
 作者は、五年間の強いられた沈黙をむしろ必然なものとして感じるようになった。主観的にわるあがきする余地さえ対世間的にはのこされていなかった。獄中のひとのための公判準備、その公判の傍聴、毎日数頁ずつ書き送る手紙。防空壕へ出たり入ったり。炊事。断続する読書。そういう風に五年が経過した。
 一九四五年の八月十五日が来た。その年の六月下旬に無期懲役を宣告されて網走に行っていた宮本顕治が十月十四日に風呂敷包を下げ、素頭で、草履ばきで東京のわたしがいた弟の家へ帰って来た。この八月十五日から十月、十一月、十二月とみつきの間に展開された全生活の変化は、作者の一生にとって二度とあり得ない大転換の刻々であった。生の活気とよろこび、勇躍が、女として、作家としてのあらゆる面に照りわたって、はめられている格子の敷居ぎわまでつめよって、その格子に顔を押しつけて開くのを待ちかまえていた精神と肉体とがいっせいに解きはなされた。
 そのすべてを押しながすような溢れる心でわたしは一九四六年一月――七月の間に「播州平野」を書き上げた。九月――十一月は「風知草」をかき終った。
 この二つの物語こそ、一九四五年八月十五日以後の新しく生きようとする日本のしののめのうちに響いた人間の甦りの声々であった。
 日本の男も女も何と苦しく抑えられ息さえ胸いっぱいにはつけずに生きて来たことであったろう。戦争が終りファシズムの兇暴な権力がくずれ、そして、治安維持法が消滅したという歴史的な事実。そのように入りくんだ歴史のひだごとに、一人の女、一人の妻、一人の婦人作家としての悲しみとよろこびが折りたたまれて来て、いま解放が来た、ということは、わたしに「風知草」をあのような作品として書かせずにおかなかった。その法律で多くの人の生涯をめちゃめちゃにして来た治安維持法一つが消滅したら、二十六歳の年から十二年間未決におかれ、最後にはいくつものこしらえあげた罪名を蒙らして無期懲役を宣告されていた一人の革命家の心と体から、すべての鎖と枷とがいちじに落ちてゆく光景はそのひとの無垢を信じてその歳月をともに暮した妻である、作者にとって平静に眺めるには堪えがたい壮観であった。
 共産党が合法政党として立ちあらわれ、代々木駅ちかくのうすよごれたコンクリート建物のがらんとしてまだ人気も少い入口の柱に、アカハタ編輯局という貼紙が出された。やがて、おかしな字で日本共産党と大書した板の看板がその入口の上にかかげられた。それは作者をうれしさで笑顔にし、同時に、日本の人民がはじめて公然と革命的政党を持つようになったという歴史の新しい一事実でもあった。
 一九四五年八月十五日以後、日本には、それぞれの人の心にそれぞれの形で歴史的な内容をもつ歓喜と悲哀の感動が流れわたった。そして、そのさまざまな度合いと色あいの激しい悲喜の思いこそ、その人々が気づくと気づかないとにかかわらず、「風知草」という一篇の小説の世界をつらぬいて流露された歓喜と悲哀に通じるものであった。悲しさも、歓ばしさも、そのすべてが人民として共通に生きぬかれた野蛮な歴史の暴威と崩壊。新しく心ごころに感じられはじめた生の甦りの感覚として。
「風知草」については、先ずその題のよみかたが、ふたとおりになっている。「ふうちそう」とよむよみかたと「かぜしりぐさ」と読むよみかたと。作者は「かぜしりぐさ」とよむことは知らなかった。夏の夜店の植木屋の葭簀ばりのそばで青々と細葉をしげらせたその鉢植を買ったとき、植木屋はそれを「ふうちそう」とよんだ。わたしは、ああ、そのほっそりした葉がかすかな風の渡るときにもそよぐからだろうと納得していたのだった。二三年たって、同じ草の鉢がさし入れられて、巣鴨の蒸し釜のような女舎のせまい板じきにおかれた。その三畳の室は風通しというものが全くなかった。暑気に喘ぎながら、わたしはその細い葉の一端でもそよがせる微風――といわないまでも空気の動きを求めた。しかし、その細い青いむら葉はわたしがその室の中で昏倒してしまうまでそよっとも動くことがなかった。さし入れ通知の紙に、ふうち草鉢植一とかかれていてわたしはその下に、赤いにくで爪印をおしたのだった。そういういきさつから、作者のこころもちは「ふうちそう」としてしかあの夜店の草を思い出すことができない。
 風知草の主要な人物は重吉とひろ子という夫婦である。重吉が思想犯として十二
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