解説(『風知草』)
宮本百合子

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        「乳房」について

「乳房」は一九三五年(昭和十年)三月に書かれた。発表されたのは中央公論四月号であった。
 たいして長い小説ではないけれども、この作品がまとまるまでにはいろいろ当時としてのいきさつがあった。そのいきさつのあらましは、一九三二年の三月下旬「日本プロレタリア文化連盟」にたいする弾圧があった時代にさかのぼって話されなければなるまい。それまでは「コップ」や「ナップ」で公然と文筆活動をしていた小林多喜二、宮本顕治その他の人々が、一九三二年三月以後はこれまでの活動の形をかえて、地下的に生活し働かなければならないようになった。わたしも一九三二年四月七日に検挙されて六月十八日ごろまで、警察にとめられていた。小林多喜二、宮本顕治は不自由な生活と活動の条件にかかわらずどこかでずっと無事に暮していた。同じ年の九月「コップ」の婦人協議会がそっくりつかまって、わたしはまた一ヵ月警察生活をした。
 共産党の中央部が破壊を蒙った熱海事件がこの一九三二年十月にあり、そのころ共産党中央委員であった岩田義道が、検挙と同時に殺された。翌一九三三年の二月二十日に小林多喜二が築地署で拷問のために虐殺された。つづいて、野呂栄太郎が検挙され、このひとは宿痾の結核のために拷問で殺されなくても命のないことは明白であると外部でも噂されている状態だった。
 一九三三年は、日本の権力が、共産党員でがんばっている者は殺したってかまわない、という方針を内外にはっきりさせて行動した年であった。そして、一九二八年三月十五日、三・一五として歴史的に知られている事件のころから共産党の組織に全国的にはいりはじめていた警察スパイが、最もあからさまに活躍して、様々の金銭問題、拐帯事件、男女問題を挑発し、共産党員を破廉恥な行為へ誘いこみながら次から次へと組織を売っては殺させていた年であった。
 そういう兇猛な雰囲気のなかで、良人である宮本顕治が地下的生活をしているということはわたしに一刻も安らかなこころを与えなかった。常に不安があった。ほんとに寝ても、醒めても。その上、夫婦の愛情をおとりにし、運動に習熟していない妻であるわたしをとおして、宮本顕治をとらえようと計画する企図も試みられた。自分の愛を最もたえがたい方法によって悪用されまいとするだけにも、絶間ない精神と肉体の緊張を必要とした。
 一九三三年はこういう時期であった一面に、プロレタリア文学運動は最後的な紛糾状態におかれていた。林房雄その他の人々によって、それまでのプロレタリア文学運動の指導方針の政治的偏向ということが一方的に云いたてられ小林多喜二の虐殺によっておじけづいた人々が心理的にそれにどんどんまきこまれて行った。丁度ソヴェト同盟では前年に第一次五ヵ年計画を完遂した結果、これまでのプロレタリア芸術理論を発展させるような社会条件がそなわって来て、従来の唯物弁証法的創作方法を、社会主義的リアリズムにおしすすめた。その社会主義的リアリズムの創作方法の理論は、不幸にして日本につたえられた時期が、そういうプロレタリア芸術運動の潰走期であったために、忽ち、これまでの日本プロレタリア芸術運動の方針を否定する便宜な口実として逆用された。蔵原惟人、小林多喜二、宮本顕治などの、既に当時は公然とした文化の場面で討論する自由を失わせられていた人々の努力をひたすら否定し、抹殺することで自身の保身法とするために、ソヴェトの社会主義的リアリズム論が歪めて援用された。これは一九三三年六月に佐野学、鍋山貞親を先頭とする「転向」の濁流の渦巻きとともにあらわれた。その有様のあさましさは今日の想像しにくい毒気をまきちらした。
 もとより、一九三一――三年間の、日本におけるプロレタリア文化・芸術運動の方針が、それとしてきりはなして今日研究されたとき、指摘されるべきいくつかの論点があることは明白である。けれども、どういう社会現象も当時互に関連して動いていた諸事情の具体的な現実を綜合してしらべてみなければ、真実はつかめない。一九三三年代の所謂「政治的偏向」も、それに対する殆ど痙攣的だった保身的批判理論も、どちらも、十五年たったきょう顧みれば、日本の治安維持法の殺人的跳梁に影響された現象だった。当時の権力はまんなかに治安維持法の極端な殺人的操法をあらわに据えて、それで嚇し嚇し、一方では正直に勇敢だった人々を益々強固な抵抗におき、孤立させ、運動を縮みさせ、他面では、すべての平凡な心情を恐怖においたてて、根本は治安維持法に対するその恐怖心を、所謂指導者やその理論批判に集中表現させることで、進歩的戦列を崩壊させる手段としたのであった。
 きょうより考えれば、あれほど残虐非道な治安維持法を嫌悪し、恐怖し、抵抗を感じるのは、当然だったと思う。人間なら、ああいう非人間的暴力には精神的にも肉体的にも堪えがたいと感じるのはむしろ自然である。しかし、こんにちの私たちにとって、一つの深刻適切な教訓がこの経験よりくみとられて来る。それは、将来どんなことがあっても人民的な立場のすべての人々は再び一九三三年代の素朴な誤りに陥ってはならないということである。すなわち、権力が悪用しようとするすべての悪法への嫌悪と、それにあくまで抵抗してゆく民主的理論についてゆくことをこわく思う個人の心とを、ごっちゃにして歴史の前進と自身の運命を混乱させてはならないという教訓である。幸、この教訓は、きょうの人々の理性に生きた実感となって来ている。日本の、肉体で労働する人々、民主的作家をこめて精神で労働している人々が、一つとなって内外のファシズムと戦争に反対して立つ気風が顕著になって来ていることが、その証明である。
 さて、こういうように、日本の社会史の上でも画期的な規模と深さとをもってまきおこされた混乱に処して、わたしはおさなく、しかし純粋な憤懣で焼かれるしか心の表現の方法を知らなかった。一九三三年一月の『プロレタリア文学』に発表された「一連の非プロレタリア的作品」という論文と、そののち同誌に発表された自己批判の文章とは、当時の政治的文学的混乱の大渦巻をリアルな背景として見て、はじめてその誤謬をも理解することができる性質のものである。作品批評の表現をとっているけれども、これはわたしの生きて体を流れ貫いている血が信じるに足りない者であることを次々に示してゆく、かつての仲間に対して、人間として妻として抗議しずにいられなかった絶叫であった。だから、批評の対象とされた作家は度はずれな尺度でものを云われ、そのことでプロレタリア文学の理論そのものまでふみやぶられていて後に自己批判を必要とされた次第であった。
 一人の婦人作家がこういう荷にあまる歴史的な苦しさに焼かれて日々をすごしているとき、おちついたこころもちで、小説を書くということは不可能なことであった。おちつかないその心のままで書ける小説は発表され得なかった。「刻々」という題によって書かれた留置場生活の記録など。――それにもかかわらず小説はかかれなければならなかった。プロレタリア文学の方針が政治偏向で、小林多喜二のように作家を政治的な場面においこんで、才能を濫費させたという、本質的にはデマゴギッシュな団体内外の批判に対して事実で答える責任のある作家は一つでもいい作品を発表する必要があった。
「乳房」の第一の原稿はこの時期に準備された。一九三三年の夏、わたしは、幾度か荏原の労働者地区にあった無産者托児所へゆきそのぐるりのお母さんたちの生活にふれた。職場の人々との会合の、字では書いておくことのできなかった記録を整理した。そして八九十枚まで、小説としてかきはじめた。
 ところが、それは小説にならなかった。当時の生活は、時間的に寸断されていた上に、一つの作品を完成させるに必要な作者の一貫した生活気分が合法生活と非合法生活との間にわけられていて、それ自身一つの客観な一つの世界としてかたちづくられなければならない作品はまとまらなかった。
 この小説の試みは中絶された。そして一九三三年の秋もおそくなってから「小祝の一家」という短篇小説がかかれた。夏の間にこころみられていた作品とは題材もテーマもちがっていた。当時文化活動に献身していた一人の同志の健気の生活から感銘された作品である。同じころ、創作のためには非常に無理だった条件のなかで、しかも小説をかく必要があったとき、佐多稲子が「進路」という一篇をまとめたことは、彼女の作家的閲歴としてもプロレタリア文学史にとっても意味ふかいことであった。一人の労働者の若者を主人公として、その家庭的苦境と職場での日和見的勢力との苦闘を、当時の一つの階級的現実として描いた作品であった。苦渋な、しかし真摯な作品である。
「小祝の一家」が雑誌『文芸』に発表されて程なく、一九三三年十二月二十六日宮本顕治は東京地方委員会のキャップをしていたスパイに売られて検挙された。
 一九三四年一月十五日にわたしも検挙され、六月十三日、母の危篤によって家へ帰された。母はわたしの顔をおぼろの視力でようように見わけ十五分ののちに絶命した。
 その一九三四年の十二月に、わたしは淀橋区上落合の、中井駅から近い崖の上の家に移った。たった一人そこに住んでいた作者の生活は、近所の壺井繁治同栄、窪川稲子、一田アキなどの友情で扶けられた。生活感情の全くちがう父の家の雰囲気では、そのころのわたしの妻としての心痛や緊張の思いが日常生活のうちに自然な発露を見出せなくてやってゆけなかった。
 上落合へ移ってからわたしは「バルザックから何を学ぶか」その他の感想評論をかき、やっと「乳房」をまとめることができた。父の家を出て環境が整理されたこともよかった。その年の十二月二十日すぎの或る夜、夕刊に、宮本顕治が一年間の留置場生活から白紙のまま市ヶ谷刑務所へ移されたというニュースが出ていたと、一人の友人が知らせてくれた。作者はそのとき、思わずああ! と立ち上って、殺されなかった! とささやいた。一年間の留置場生活の内容は、完全に遮断されている妻には一切しらされなかった。宮本の母さえも、警視庁で命ぜられたとおり自分が息子の顕治に面会した場所や健康状態については、沈黙を守っているという有様であった。
 さかのぼって考えれば一九三一年以来、はじめて、小説にうちはまってゆけるゆとりが作者の心に生じた。また一九三二年から前後三回に通計十ヵ月ちかい警察の留置場での生活を経験しなければならなかったこともそのころプロレタリア作家としてより深い階級的実感をもたらした。
 宮本顕治があのように不自由して獄外に生活していたころ着手して、未完成のままにおかれた「乳房」を(題はまだつけられていなかったのだけれども)宮本が生きて、これから先何年もそこですごさなければならない見当さえつかない未決にまわった記念のために、ちゃんとした小説に書き上げたいと思う熱意があった。そのために一ヵ月余、継続的に仕事をした。ある部分は数度かき直された。そして「乳房」と題をつけられ、中央公論四月号にけいさいされた。
 この期間、「乳房」を集注して書き終えたのは好機であった。なぜなら、わたしは、その五月十何日であったかに前年母の死去によって中絶された調べのつづきと称して検挙され、その秋に起訴され、翌一九三六年三月下旬まで未決生活に置かれたのであったから。この一九三六年一月三十日に父が亡くなった。わたしは五日間仮出獄して、葬式に列し、再び未決へもどった。二・二六があったのもこの年のことである。
「乳房」は、ある労働者街の無産者托児所の生活を中心として、東交の職場が各車庫別のストライキに立っていたころの動揺、地区のオルグとして働いている人物の検挙につれて、その余波が托児所にまでひろがって来る前
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