う題によって書かれた留置場生活の記録など。――それにもかかわらず小説はかかれなければならなかった。プロレタリア文学の方針が政治偏向で、小林多喜二のように作家を政治的な場面においこんで、才能を濫費させたという、本質的にはデマゴギッシュな団体内外の批判に対して事実で答える責任のある作家は一つでもいい作品を発表する必要があった。
「乳房」の第一の原稿はこの時期に準備された。一九三三年の夏、わたしは、幾度か荏原の労働者地区にあった無産者托児所へゆきそのぐるりのお母さんたちの生活にふれた。職場の人々との会合の、字では書いておくことのできなかった記録を整理した。そして八九十枚まで、小説としてかきはじめた。
ところが、それは小説にならなかった。当時の生活は、時間的に寸断されていた上に、一つの作品を完成させるに必要な作者の一貫した生活気分が合法生活と非合法生活との間にわけられていて、それ自身一つの客観な一つの世界としてかたちづくられなければならない作品はまとまらなかった。
この小説の試みは中絶された。そして一九三三年の秋もおそくなってから「小祝の一家」という短篇小説がかかれた。夏の間にこころみられていた作品とは題材もテーマもちがっていた。当時文化活動に献身していた一人の同志の健気の生活から感銘された作品である。同じころ、創作のためには非常に無理だった条件のなかで、しかも小説をかく必要があったとき、佐多稲子が「進路」という一篇をまとめたことは、彼女の作家的閲歴としてもプロレタリア文学史にとっても意味ふかいことであった。一人の労働者の若者を主人公として、その家庭的苦境と職場での日和見的勢力との苦闘を、当時の一つの階級的現実として描いた作品であった。苦渋な、しかし真摯な作品である。
「小祝の一家」が雑誌『文芸』に発表されて程なく、一九三三年十二月二十六日宮本顕治は東京地方委員会のキャップをしていたスパイに売られて検挙された。
一九三四年一月十五日にわたしも検挙され、六月十三日、母の危篤によって家へ帰された。母はわたしの顔をおぼろの視力でようように見わけ十五分ののちに絶命した。
その一九三四年の十二月に、わたしは淀橋区上落合の、中井駅から近い崖の上の家に移った。たった一人そこに住んでいた作者の生活は、近所の壺井繁治同栄、窪川稲子、一田アキなどの友情で扶けられた。生活感情の全くちがう
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