心理の問題ではない。たとえば、佐多稲子の「くれない」という小説の女主人公の苦悩の根底にも潜んでいる問題である。しかし、治安維持法があり、現実が現実の内容のままの素直さで語られ、追究され解明されることの不可能だった時代にかかれた「くれない」で、佐多稲子は「思いあがり」という自責的な表現でうらから後家のがんばりに不十分に触れてゆくしかなかった。「思いあがり」という自責的なひとことのなかに、女として作家として積極であった多くのプラスをのみこみながら。戦争とファシズムの力とで人間はどんなに非人道的に扱われて来たかということについて、そのような権力への抗議として少くとも「風知草」の世界が語り得ている程度にさえ、語った小説は十数年間の日本にあることが出来なかった。「風知草」が柔かな紅い色の曲線で描かれたクロッキーであり、その主調がひろ子の愛の情であるにしろ、そのような愛の流露が可能とされている歴史の過程と一貫した階級的な立場の本質は、たたかいとられた生の肯定その発展として作品の隅々にまで鳴っている。「風知草」の抒情性には、平穏に巣ごもった男女の恋着のなま暖かさはない。大きく暗くおそろしい嵐がすぎて空ににおやかな虹のかかったとき、再び顔と顔とを見合わせた男女が、互の健闘を慶び、生きていることをよろこび、そのよろこばしさにひとしお愛を燃えたたせる姿がある。すがすがしい一種の革命的リリシズムがある。「風知草」はその描線にいかようの省略があろうとも人間云いならわした愛という言葉、よろこびという言葉、またその歎きに、どのように生新な歴史の質量がうらづけられてゆくものかということについて省略していない。大らかな虹の光りの下に立つ愛の歓喜が心情の純粋に重吉とひろ子とのものであって、しかもそのまじりけなさにおいて決して、二人だけのものではないという人間の実感を省略してはいないのである。「風知草」は、その小説としての存在そのものによって文学の可能がわれわれの社会的自由の可能とどんなに一体のものであるかということについて語っている。文学の可能の拡大をもたらすわたしたちすべてのもの、社会的な自由の拡大こそ、人間の愛の豊富さを可能とすることをも語っている。
民主主義の文学は、日本の人民的民主主義革命の課題をその具体的な諸相で描きつつそのことによっておのずから過去の日本の文学からの成長を課題としている
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