多くすんで居る。それを知って居るんでおせんこくさい香がするように感じるのかも知れない。
もとよりこんなことは人それぞれの感じでちがって居るから、あたって居るかどうだかわからないけれども。
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人が町によって色があると云うけれども私にははっきりこれがわからないけれども。
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浅草が豚の油でといた紅のような気のするのと、
染井の墓地に行くまでの通りの、孔雀石をといてぬった青のような気がするのと、
京橋のわきの岸が刺青のような色をして居るようなことだけは感じて居る。
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フランネルで作った犬の腰のぬけて、めだまのぬけたのは妙に可愛いもんで、首人形の髪の手がらの紅の少しあせたのと、奇麗なかおの少し黄がかったようなのはなつかしい古い錦をなでて居るような心持になる。
新らしい本のかどかどをなでまわすのと、新らしい雑誌の紙をきるのとはたまらなく、新らしい着物のしつけをとるよりうれしい。
この頃子供達、内ばかりの……の間に、「得意にやっちょる」と云うことばが流行《はや》って居る。
兄弟が何かずにのってやって居るとはたで、
「得意にやっちょる!」
とはやしたてると、云われた子はまっかなかおしてやめる。
世の中にも、
「得意にやっちょーるー」
とはやされそうな人は沢山居るにちがいない。
第三日
ダンテの像に黄色いきれで頬かぶりをさせたのと、百姓おやじに同じことをしたのと同じ位似合うのには一寸びっくりした。
可愛がらなければならないはずのものが可愛くなくって、可愛がらなくってもいいものが可愛くてたまらないと云うことは、だれにでもある人情だと見える。
黒毛の猫とあんまりやせた犬とはねらわれて居るようで、かべのくずれたのはいもりを、毛深い人は雲助を思い、まのぬけて大きい人を見ると東山の馬鹿むこを、そぐわないけばけばしいなりの人を見ると浅草の活動のかんばんを思い出す。
用いふるした金ペンと小さい鉛筆をためるのと、髪の毛の数を想像し、草の生えて居るところを四角に切って元禄にとって行くのは馬鹿げたことでたのしみなことである。
ひまっつぶしにはくもとにらめっこをするのがいい、いつまでたってもあきることがない。人形になる、天狗になる、蛇になる、天馬になる、スヒンクスになる、宮殿になる、様々に変ってやがて馬鹿にしたようにプッととんでってしまうから。
第四日
人間が無念無想になる時は、一日の中に可成沢山有る。私の一日中に無念無想になる時には、
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朝起きてかおを洗う時……手拭に水をためて顔にあてた切那、
あくびをする時、あついお湯にしずむ時、だるくってそ□□□[#「□□□」に「(三字不明)」の注記]けんになった時、ハッと思った時、
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こんな時になる。
又、一番下らない事をしみじみ考えるときは、
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ひざを抱いて柱によっかかった時、
団扇の模様を見て居る時、
人のものをたべるのをはたで見て居る時、
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障子の棧を算えて居ると妙に気が落つく、又蠅の糸の様な足を二本合せておがんだり、三本合わせておがんだりして居るのを見るといやに面白い中にせわしないイライラな気持になる。
人のかおが可愛いなんかって云うのは、赤坊のかおを標準にして居ると或る人が云ったけれ共、なんだか若し大人が赤坊のかお通りならずいぶんまのぬけたものだろうと思われる。
のんきは――一寸のんきさがますと馬鹿に近くなってしまう。
人にはどんな人にでも多少惨こくな心持が有るにちがいない。たとえばここに下らない人の書いた地獄の絵と、名人のかいた山水とならんであるとすると、山水は一寸いいかげん見て置いて地獄の針の山に追い上げられる亡者や、火の池をおよぎそこねるものなんぞを「ずいぶんいやな絵ですネー」と云いながら前よりも長い間そこに立ちどまって見る。
私が何かものずきに雅号をつける。
それが雑誌かなんかで同じ名が見えると、自分の領分に足をふんごまれたような馬鹿にされたような気持になるので、そのたんびにとりかえる。くせの一つかもしれない。
第五日
小供なんかって云うものは妙なもので、頭が単純なせいか、一つはなしを幾度きいてもあきないで笑ったりなんかしてよろこんで居る。
かおがそんなに奇麗でなくっても、声のきれいなのはそれよりもまして可愛い心持のするもので、みにくいかおの女がなめらかな京言葉をつかって居るのは、ずいぶんと似合わしくないもので、きれいなかおの人が椋鳥式のズーズーでやって居られるとなさけない、いきなりポカリと喰わされた様な気がするもんだ
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