も無雑作にかみをつかねて気楽そうな様子をしてながら時々妙にジッと見て居り、深く深く心にさぐりを入れて居る様にだまって居て見たりするまだ年の若い娘の事が妙に気にかかる。「マ、どうでもいいさ、人なみに御飯をたべて居る人間なんだ」こんな事を云っておう来の見えるまどによっかかった。弁当をぶらさげた職人や御役人さまというみじめな名にとりこになって居る人間達が道に落ちてるゴミ一本でもためになればのがさずひろって行くという様な前っこごみのいやな風をして歩いて行くのが見える。つくづく自分ののんきさがうれしく思われる。
 親父にはどんな事があってもなりっこなしにするのさ――どじょうっぴげを気にしながら小供のお守をして居る親父殿を見るとすぐ斯う思われた。何かすぐ筆の下せる様な人が通ればいいがナアと根気よくまって居たが、来るどころか皆いやな様子のものばっかりが通る。何とはなしにかんしゃくが起る。かんしゃくが起ると自分の体をあつい鉄の板の上になげつけてやりたい様になるって云ってたっけが、一つここからとんでやろうかナ、立ち上ってフト――窓からは飛ばずに階子をかけ降りて三味線をつかんで又かけ上った。
 調子なんかかまわずにただ一寸はじいてもいい音がする。そのつながりのない一つ一つの音にも何となく思いをはらんで居る様なので撥のはじで一本一本丁寧にいろんな音を出してはじいて見る。
 その音の中から何か湧き出して来そうな気がする。撥をすてて爪弾をして居ると、何となくその音がこないだ見た紙治の科白の様にきこえる。どうしてあの時はあんな風に酔わされたのかしら、涙が出て――涙が出て恥かしいほどだったが、涙のこぼれる方がまだ好いんだ。三味線をほっぽり出して壁によっかかってあの時のうれしかった事を思い出す。あのなよなよとした肩っつき、頬かむりの下からのぞいた鬚の濃さ、物思わしげな声――それだけ思っても頬が熱くなって来る。
 あの通りの着物を作ってしっとりと着て見たらさぞうれしいだろうが――あの時はまるで自分が紙治になって居た、傍で見て居たら、キット一緒に首を動かしたりうなだれたりして居たんだろう。も一遍あんな気持になって見たいナ、若い娘がいい人の事を思い出した時みたいにトキントキンとどうきが高くなって眼がかすむ様になって居る。「いいなあ」我知らずこんな事を口走ってしまった。下でおっかさんが「お昼だよ」って云ってるけども行きたくなんかありゃあしない、ちっとも。こんないい気持でこんなおだやかな心でこのまんま死んじまいたい様だ。
 何を考えるともなく目をつぶってうっとりとして居た。何にもする事もなし、浜町にでも行って焼絵を書いてでも来ようか、と思い立ったんでスケッチブックをつっこんでフラリと飛び出すとおっかさんが何かしきりに云ってなさる。何かしらと思ってあともどりをして見ると、蟇口を忘れたんだった。「のんきな奴だ!」と云ってしまった。しばらく歩いて見たが電車にがたがたゆすぶられるのもと思ってお師匠さんのところへ行ってしまった。
「マア、随分この頃はお見限りでしたネ、貴方のこったからって云ってたんですけれ共」
 いきなりこんな事をあびせかけられた。稽古台はからっぽで縁側に三つ四つ友禅の帯が見えて居る。一番はじっこに居る娘のえり足が大変にきれいだ。お師匠さんにうたわしてひかして自分はだまって遠くから見て居ると、自分が手をもって教えてもらった人の様には思えない。一寸絵になりそうな様子の女だとこないだっから思ってる。
 金のいやにデコデコした指環のある手で器用にひきこなして居るのを見ると、若い時の事がフッと思われる。新橋の何とかと云う妓《コ》だったってきいた事があるが、今の年でこの位なら若い時にはキットさわがれて居たんだろうと思う。四人の娘達がかくれてばっかり居ていくらよんでも出て来ないんでいやな気持になったからプイと出て浅草の仲店に行って見る気になって電車にのる。沢山のって来る女の中でマアと思う様なのは一人もいやしない。芸者らしくない芸者を見たりみっともなく気取った女を見たりするとつくづく素足で何とも云われないほど粋な様子をして居た江戸時代の柳橋の芸者がなつかしくなる。仲店を幾度も幾度も行ったり来たりして三四枚スケッチと玩具の達磨と鳩ぽっぽとをふり分に袂に入れて向島の百花園に行って見る。割合にスケッチも出来なくってイラついて来たんで電車にのって山下まで行った。あのうすっくらいジメジメしたとこに帰るんだと思うとたまらなくなってしまったんで又九段の友達の家に行く。二人でやたらにシンミリと紙治の話をしこんでしまった。あれもほんとうによかったネ、私だってないたサ、あの着物そっくり着て見たいと思ってるんだ。私は紙治のまぼろしと心中してしちまいそうだなんて云ってたほどだから……たまらなくうれし
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