気まぐれで――用事をしてらしったってかまわない」
 女はあんまり下らない言葉だと思いながらこんな事を云った。
「アア、そんなじゃないけどとにかくひまじゃないんだ」
 男はたるんだ声で云ったのがふくれきって居た女の心をひやっこくスーッとなぜて行った。女は急に影のさした様な気持になって、机のはじにチョンと腰をかけながら、濃い房々した男の髪を見ながら、
「あんた、今日どんな気持でらっしゃる? ふやけた様に――たるんでるんでしょう?」
 口元をゆるめないで女は云った。
「又始まった、だだっ子だなこの人は――」
 男は何でもない様に云って、ねりそこねたうどん粉の様な笑い方をした。
 男のする事や云う事は、女の心に入って行く時にはすきだらけの、みっともない下手なお化粧の様になって、ほんのちょっぴりうしろにむきかけた女の心を段々とあと押しをした。
 女がしまった心で居るのに、男の方ではすきだらけで何でもないただの人をもてあつかって居る時と何の変ったところもなく、「ほんとうにネ」「そうだ」「違うよ」と云う言葉を繰返し繰返しかんしゃくがこみあげて来て、くしゃみが出そうになるまで男は繰返した。
「アア、私来なきゃよかった」
 あきらめた様な口調に女が云った。
「マア、どうして?」
 男はフイにどやされた様な声で云った。
「貴女があんまりのんべら坊としてる――すきだけらで下手な話ばっかりして――
 一人ごとを云ってたっても、少しはしまった事が云える――」
「…………」
「もっと張りがある様にしましょうよ、そいで調子よくネ、考えなくっちゃあならない事、云わなくっちゃあならない事が山ほどあるんじゃあありませんか……」
 そう云って居るうちに、何とはなしに女はうっとりとする様なかるい悲しさにおそわれて来た。
 男はだまって廊下ごしに向うの森を見て居る、口の辺にはうす笑が満ちて居る。罪のない様なかおを横から女はしげしげと見入っていつの間にか自分までつりこまれてうす笑をした。
「いいあんばいだ。ようやっと少しは柔い気持になれる」
 斯う女は思って先にかがみの前でした様な様子を、器用に手早にさせて男の肩を両手でゆすぶった。
 二人は崩れた様に笑った。
「何さっきあんなけんけんした声を出した?」
 男は女の小指をひっぱりながら目を見て云った。
「何故って、かんしゃくが起っただけ――」
「馬鹿なこだよ、おこすわけもないじゃないか……」
「あんたが間の抜けた様子をするから悪いんだ!」
 女はさっきの気持とまるであべこべのふっくりした声と気持で云った。
 二人は窓ぎわに並んで座った。男の頭の回りをしとやかな秋の日和がうす赤にそめて居るのや、衿足のスーッと長いのが女にはやたらにうれしかった。
「私はうれしくなって来た」
 ことわる様に女は云って、いつもする様に手だの耳ったぼだの肩だのをひっぱった。
 男はしずかにしながら、小声で小学歌をうたって居る。のんびりした音律のフレンチのしなやかな音調のうたは感じやすい女の心から涙をにじませるには十分すぎて居た。男の肩に頭をおっつけて目をつぶって女は夢を見かけて居た。
「私達は人並じゃなくしましょうよ」
 女はフイとこんな事を云い出した。
「人並じゃなくとは?」
「ホラ、ネ、知ってるじゃありませんか。だれでもがある様に死ぬまで一緒に居られる様な時になるとたるんで来て、お互にあきあきしてしまってさ」
「私達にそんな事があるもんかネ」
「それをほんとうにネエ、なんて云うほど私の心はおぼこじゃありゃしない。だから私なんか死ぬまで別々の家に住んで、お互に暮し向の事なんか一寸も知りあわずに居た方がいいとも思ってる……」
「そいじゃ張合がないんじゃないか」
「だってしようがありゃしない、いやな事にぶつかってしかめっつらをして又あともどりするより、笑いながら始めっからぶつからない様にして居た方が好いと思うから」
「もうおやめ、これがすめば又かんしゃくを起すんだろう? おやめ、下らない、もっとおだやかな気持をいつでも持ってなくっちゃあならないよ」
「だって考えられるんだからしかたがない、ネ、そうじゃない? 『愛情の夫婦生活はそう長くつづくものではない、今さめたんだよ、これからは二人の間の忍耐力をためされる時が来たのだ、こらえろよ、ナ、こらえろよ』決闘ん中にあるじゃありませんか、斯う――
 私はこんな事を思う様に、又人から云われる様にはどうしてもなりたくないんだもの……」
「ほんとうにおやめ、今日はよっぽど亢奮して居るよ、もっとのんきな事を話し合ってたっていいんだから」
「エエ」
 女は気のない返事をして、男は一寸もこんな事を考える事はないのかしらんと思った。男の手を後から廻して自分の手をもちそえて頭を力いっぱいにしめつけた。そして神経的なまとまり
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