のように白霧が立ち昇って来る景色などは、日本風な優婉さで、特別彼女の心に強い印象を遺していた。
 まして、この度の帰省には、一つの楽しい空想が加っていた。
 長年、都会と田舎とに別れ別れの生活をし、親しく老父を慰むる機会を持たなかった真木は、時候のよい今度、父を誘って、何処か閑静な温泉にでも行って、ゆっくり昔語りでもしたいと云っていたのである。
 三月が終に近づき、旅行が迫ると、ゆき子は物珍らしい亢奮を覚えた。
 毎晩、夕飯を済すと、彼等は一つの灯の下に顔を揃えた。そして、開け放した庭から流れ込む沈丁花の香の漂う柔かな夜気を肌に感じながら、旅程を検べ、土産物の相談をし、留守番のしがくをすることが、共通の愉しみとなったのである。
 それにも拘らず、愈々決定するとなると、ゆき子は心の渋るのを感じた。
 決して、×県に行くのが厭だというのではない。併し、行かなかったら、もっと自分の心に、生活に、直接な悦びが獲られはしないかという逡巡が、段々頭を擡げ始めたのである。ゆき子は、文筆に携る仕事をしていた。丁度、その時分、長い辛い仕事が目前に控えていた。彼女は、もう半年もその一つに掛り切っていたので
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