い。その夫婦の間に、見えず、聞えず保たれている精神的な諧調、一つが何かを感じれば、また他の一つも、同じ興味、一つになった自然さでそれに相呼応して行く自由な朗らかさを、ゆき子はさながら餓えた犬のように羨しく眺めたのである。
「勿論、御飯を今にする、否、後にするという位のことなら云うことはない。また、理論的に、あれはこうあるべき[#「あるべき」に傍点]ことだ。あり得べからざる[#「得べからざる」に傍点]ことだ。という風に押しつめて行っても一致はするだろう。けれどもこのように、気持そのもので楽に何処までも交響して行くようなことが、果して我々にあるだろうか?」現在、自分はその点でつきない不満を感じているのではないだろうか。――
やや暫の沈黙の後、ゆき子は、はっきりとした声で、
「貴方」
と真木を喚《よ》びかけた。彼女の調子のうちには、どうでもよい場合の、当然な暢やかさがなかった。真木は振返った。
「何?……」
「話しましょうよ」
真直に彼を見ている彼女の眼を眺め、真木は、「何だ」と云うように、また紙に向った。
「話したらいいだろう。いくらでも、こうやっていて聞えるから」
「それじゃあ話した気なんかしないじゃあありませんの」
ゆき子は、始めはとろとろと堤に滲み出した河水が、だんだんと不可抗の力で量と速力を増して来るような気持になった。
「――何の用なの?」
「用じゃあないけど……昨日から私達は碌にほんとの話をしないじゃあないの?」
「そう改ってしようたって出来るもんじゃあない。機勢《はずみ》が来なければ――。併し」
真木は、真正面にゆき子を見、戯談でない声で云った。
「用がないなら静にしていてくれない? 僕は、休中に遣ってしまいたいものが沢山あるんだから、ね。平常は、忙しくて暇のないのは、貴女も知っているだろう……」
全く、真木が、専門に関して書類を纏めているのは事実であった。勿論ゆき子は、それを知っていた。けれども、今の場合、彼女には、その「専門」の権威で圧せられるのは辛棒が出来なかった。彼女の衷心には、殆ど意識の陰で、自分の仕事を顧みさせられる不快がある。ゆき子は、ぐっと心が意地悪くなるのを感じた。
「用がなけりゃあ話もされなくてはおしまいね!」
彼女は、毒針と知りつつそれを虫に刺し込むような残酷さでちらりと良人の方を見た。
「……どうしたのだ。そんな調子でものを云うものではない」
「だってそうじゃあないの。分り切った用事のことほか、話す気もないようじゃあ、おしまいじゃあないの?」
仕事に戻ろう戻ろうとして、隙を見てはペンを取り上げていた真木は、この言葉を聞くと、からりと机の上に万年筆を投げ出した。ゆき子は、思わず、はっとした。恐しさに堪えないような気持がした。と同時に、必死な、何とでも闘おうとする猛々しさがこみあげて来るのを感じた。彼女は、到頭、避けよう、避けようとしていた衝突に、我から胸を突当ててしまったのである。
真木は、正面に、ゆき子と向い合った。そして、
「ゆき子」彼は強いて穏な言勢を執った。「何が不満なの? 議論することがあるなら、ちゃんと、順序を立ててしよう。矢鱈に亢奮したって分らないからね」
「――貴方は、私が何か云い出すと、直ぐ、先ず、亢奮するな、とおっしゃるのね。第一、そう定めてかかっては戴きたくないわ」ゆき子は哀れなほど激しい眼で良人を見た。
「私はね、貴方が、私の不満を御自分で感じて下さらないことが、不満なのよ」
「僕には、何にも不満はない」
「そう! あるべき筈ではない、と定めていらっしゃるのね」
「そうじゃあないか? お互に健康で、段々生活が確立して、仕事が纏まって来れば、これほど感謝すべきことはない」
「どういうのを、生活の確立したものだとお思いになるの?」
「それは」
ゆき子は、焦立たしげに遮った。
「私はね、生活の確立したものを、世間並に、小金でも蓄めて、いい旦那さん奥さんになったのを云いはしませんのよ。また、そういう確立を得るために、話す間も専門をする間も無いような生活をしたくはありません。――勿論、そんなのがいいって云わないとおっしゃるには極っているわ。――だけれど……」
真木は、幾度も、
「どうしたの? ゆき子」、「どうしたのだ」と云って、話を軌道に戻そうとした。けれども、ゆき子は、がむしゃらに頭からぐんぐん、ぐんぐん激情の誘うがままの所まで突進んでしまった。
「貴方は、ほんとに深く、完全に私を愛してやっていると自信していらっしゃるでしょう? だから……だから……私の感じる不満や、苦しみは、皆、私ひとりの我儘だの子供らしさだのに片づけておしまいになる。――どうしたらいいの? 段々、段々心が殺されて――どうなるの? 誰に云ったらいいの? 貴方にほか持って行きようがないのに……
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