た。表座敷のように陽気な庭や、晴々した遠くの眺望は欠けている。けれども、広い硝子窓越しに、低い常盤木の植込みを透して何時も変らぬ穏やかな光線が、空から直に流れ入っているのである。
 窓際に立ち、結婚の時友達から贈られた象牙柄の手鏡を取って、暫く自分の顔を眺めた後、ゆき子は、新刊の雑誌を読み始めた。
 その号には、彼女が、常々敬意を抱いている或る女流作家の創作が載せられていた。それを読もうとして、わざわざ、昨夜、書店から買って来たのであった。
 けれども、読みかけているうちに、彼女の注意はとかく散漫になった、書かれていることが詰らないのではない。周囲が喧しいのではない。併し、自分の中が、余りに騒々しいのだ。昨日《きのう》からの妙に拗《こ》じれた気分は、今朝になっても消えなかった。彼女は、一夜持ち越しただけ、あらゆる意味で、より悪性になった苦々しさ漠然とした憤懣を、やっと不自然な沈黙のうちに湛えていたのである。
 昨日は、激しい感情の反動に乗って、一途に良人が攻められた。けれども、今となると、そう一向には行かなかった。彼が、先ず第一に無愛想であったことも、成心があってなされたことでないのは解っている。若し、また後からせかせかしたことを非難するなら、詰り彼の、マター・オブ・ファクトな性格を持ち出さなければならないだろう。
 彼が、満足し、安定を感じているとしても、普通の意味からいえば、充分そうあるべき生活の条件が揃っている。――ただ、自分の満たされない心が苦しいのだ。それが、墨を吐く。若し、真木の偶然の素振りが、それほど自分の胸を痛めたのなら、もっと自分は寛大にならなければいけないのではないか? 若し、性格によるものなら――誰が彼を愛し、選んだのだ。ゆき子は、無益な衝突は避けたく思った。が、それには、こんなに黙りひっそりとした状態が長く続くことは危なかった。
 ほんとに心が愉しく愛に満ちている時は、どんなに自分が活々とし、快活であるかを知っているゆき子は、このような状態の底に何が潜んでいるか、はっきり知り、恐れたのである。けれども、それが捌《さば》ける適当な機会は与えられもせず、見付かりもしなかった。長い間懸りながら、彼女はほんの僅かしか読み進めず、当もない考のうちに戸惑っていたのである。
 順繰りに遅れた昼餐が終ったのは、殆ど三時近かった。
 真木は、彼女の何か様子が異っているのに心付いて、頻りに種々質問した。
「どうしたの一体。――こっちに来たらいいじゃあないか、何にもしていないのなら。チーアアップ、チーアアップ!」
 ゆき子は、それでもと、自分の部屋に引籠るほど依怙地《いこじ》になれなかった。
 彼女は、良人の机の傍に坐った。そして、まだ箒目の新しい庭を眺め、遠くには手摺りに日を吸って小布団などの乾された二階家を木間隠れに望みながら、また、雑誌の続きを読み始めた。
 それは、昨今の著しい社会的現象である住宅難を背景として、それに人間が、善い心はよいなりに、悪い心は邪悪ななりに、どんな交渉を持つかということ。一つの家が、精神と肉体との棲家として考えられた場合、または、悪辣な利慾の的とされた場合、決して単純に、木と石と泥とで組立てられた「家」だけの影響には終らないという意味等を、教養のある落付いた筆致で描かれたものなのである。
 前よりは増した感興で読み続けて行くうちに、ゆき子は種々な感に打れた。或る処では、物の観かたの非常な類似に、或る場所では、描写の美しさに。また、或る箇所では、今の自分の気分で見ると、余り順序よく、一種の型の「正しさ」に落付き納ったと感じずにはいられない点などで。不意不意と、彼女はその感想を洩したくなった。言葉にすれば、僅か十言か二十言がせいぜいであったろう。けれども、ゆき子が、ひょいと気に乗って、
「ね、貴方」
とか、
「まあ! 一寸」
とか云って首を擡げると、そこには何時も、彼方を向いて何かに熱中している良人の横顔ばかりがある。
 長い間持ち越した集注ばかりでなく、彼女が、何とか一言云い懸けると同時に、さっと、邪魔されたくないと無言で示す、より緊張した表情が漲るのである。――
 次第に、ゆき子の心持は、来なかったより悪いような有様になって来た。事は違っても、昨日と同じような種類の刺戟で、彼女の胸には、今までの蟠《わだかま》りが一時に甦って来たのである。この意識が起りかけた時、ゆき子は丁度、その小説の、最後の一齣にかかっていた。そして、主人公が妻に「お前は、あの男が薄馬鹿なのか猜いのかよく分らないと云っていたから教えてあげよう。彼奴は、しんから狡猾な男らしいよ」という短い文句を、家主に関して書き送った所を読むと、ゆき子の胸には、突然、何とも云えない羨しさが湧上って来た。上手とか下手とか、批評する余地などはな
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