そり夕闇深く感ぜられる一刻である。
 彼女の眠たげな心の前には、不図、つい一月ほど前の或る夕の光景が浮み上って来た。ゆき子は、ぼんやり、
「……暖くなったこと」
と思ったのだ。それにつれて、こうしていると手足の先がしんまで冷たくなった先月の或る日が思い出されて来たのである。
 何でも多分土曜日であった。
 午後から睦しく一緒に何か読んだり書いたりしていた彼等は、ゆき子が何心なく指摘した真木の誤字のことから、段々|逸《そ》れて、矢張り今日のような結末に陥った。その時は、疑もなく、真木が彼女の真意を曲解したという点があったので、ゆき子は和解後も、心の確執を消しかねていた。
 丁度、×町に行く約束があったので、連立っては出かけはしても、彼等は何処となくよそよそしい所があるように、各自、離れ離れな会話の中心に入っていた。
 ところが、もう帰ろうとする間際になって、母が風呂に入って暖まって行ったらどうかと云い出した。夕飯前父が入ったきり、誰も入りてがないから、綺麗だし熱いだろうというのである。
「私は面倒だから、またこの次にさせて戴くわ。――貴方はどうなさるの?」
 ゆき子は、真木に訊いた。
「――さあ、どっちでもいいが……」
「じゃあ入って来給え。ゆき子は三十分でも長くいられる方がいいんだろう」
 父が笑いながら勧めた。
「そうしましょう……じゃあ一寸失礼」
 ゆき子は、いつものように後に蹤《つ》いても行かなければ、「手拭がお分りになって?」と訊きもしなかった。立って行く真木の後姿をちらりと眺めたきり、また、母と、話の続きをしていた。妹の幼稚園を何処にしたら好いかというようなことに就てであったろう。喋っていると、十分も経たないうちに、不意と入口の扉が開いた。そして、真木が笑いながら、顔を出した。誰かと思って、ひょいとそちらを見ると、ゆき子は自分の顔色が変るのが分るような心持がした。何か真木に異常のあったことが直覚されたのだ。
「まあ、どうなすったの? 気分が悪くおなりになったの?」
 ゆき子は我知らず立上りながら彼の傍によった。傍で両親達は、怪訝《けげん》な顔で眺めている。
「どうなすったの?」
「大丈夫、大丈夫、どうもしやしない。――ただ、お湯が少し冷たすぎて」
「何? 湯がぬるかった? それは、いかん。風を引かないかな?」
「大丈夫ですとも。――中で散々暴れて来ましたか
前へ 次へ
全31ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング