ゆき子は、丸く握りしめた両手で口を抑えながら、声を挙げて泣き出した。――

 彼等の間に、こういう衝突、或は激浪の起ったのは、決して始めてではなかった。
 原因は、事としては極めて些細なことが多かった。けれども、終は、いつもゆき子の気も狂うような慟哭になる。彼女は、勿論自分が激越し、正当な言葉や思考力を混乱させるのは知っていた。けれども、真木が、何と云っても、どう云っても感じない或る一点、そして、彼女はそこを明にしたいばかりに云っている、或る一点に揉み合うと、彼女は泣くほか感情の遣り場がなくなった。これが、自分の唯一人愛している者なのか、という、歯痒《はが》ゆさ、焦立たしさにゆき子は全く自制を失ってしまうのである。
 彼等の結婚が、彼等自らの意志で行われたものだけに、斯様な場合の苦しさは、云い難い。ゆき子は、屡々全くの絶望に近づいた。今日も、×町で母と自分との間に交された会話の記憶が、一層彼女を狂暴にさせたのである。単純に絶望させられ、やがて絶交されるものなら、雑作なく解決はつくだろう。併し、ゆき子に真木を見棄てることは、恐らく、自分の眼を抉ることとともに不可能であった。どれほど望を失ったように見え、しんから自分の孤独を感じても、尚、深い切れない絆が彼と自分との間に結ばれていることは明かなのである。
 暫くの間泣きしきったゆき子は、やがて彼女の泣きようの余り激しさに愕き不安になり同時に真剣になった良人の言葉や愛撫に、段々心を鎮められた。泣き尽してぼんやりとした頭を良人の腕に凭せかけ、うっとりと熱心な言葉に耳を傾けているうちに、何時かまた甦った愛の誓が、彼女の胸を安める。
 最初自分の云おうとしたこと、彼に要求して、どうにかして貰おうと思った点などは、元のまま、変更もされずに遺されてしまったことは分っていた。が、とにかく、蟠っていた熱情を激しい爆発で燃え上らせ、やがて優しく鎮められることは、殆ど神経的に快い救済であった。
 ゆき子は顔を洗い、痛々しく張れ上った瞼の上に薄すりと白粉をつけ、柱に靠《もた》れて外を眺めていた。
 もう夕暮に近かった。四辺はほんのりと靄に包まれ、未だ暮れ切らない遠くの木の間に、チラチラと光輝のない街燈が瞬き出したのが見える。時々電車がベルを鳴し、疾風のようにどよめきの中を突駛《つっぱし》った。戸外がざわめき、遽しいために、家中は特にひっ
前へ 次へ
全31ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング