祖父、或は父が家庭内で支配権をおのずから握っているばかりでなく、世間へ出てまで二言目には先ずあれは誰それの息子、娘として批判の基準をおかれることは、いかばかり苦痛であろう。弱気な若いものが中途半端に萎縮し、すこし勝気な青年たちが、反抗から放蕩に陥ったりすることは理解される。自身にのしかかるそういう重荷の歴史性を、はっきり解剖し、根底から社会通念を人間が生きるに合理的な方面に導こうとする建設の道へ身を投じる者は、少数の、本当に強い心持の若者であろう。しかも、それらの勇敢な良心的な若い息子や娘等の努力をも、未だ打挫くだけ、暗い伝習の力はつよい。岩倉侯の娘が転向した後、自殺した。無限の語られざる訴えを、私は心に銘じて今日も忘れ得ないのである。
 東郷元帥というひとが、日本の資本主義の発展のために、欠くべからざるものであった過去の戦争において、巨大な功績をのこした人であり、人格的に卓越した将であったことは、近頃種々の刊行物にあらわれている日露戦争の思い出話のうちにも十分に窺える。智謀にも長《た》け、情に篤く、大胆な決断力をも蔵していたであろうが、例えばバルチック艦隊全滅の勝利にしろ戦争は独り角力でない以上、対手かたの条件との相対的な関係というものが大きい作用をしている。
 あの時分のロシアは、ヨーロッパの眠れる熊と呼ばれた。眠っている、然し吼えて立ち上ったらどのような力を振うかもしれぬというのが、広大な国土の潜勢力に対する列強の予想であった。
 それに対して日本は、今日と全く違った目安でヨーロッパ諸国からは見られていたのであったから、イギリスの力を勘定に入れてもこの取組は、世界の注目の的となるのは当然であったろう。
 ロシアの艦隊が、その実質にはツァーの政府の腐敗を反映して、どんなものであったかということは、ソヴェトの海洋文学の作者ノヴィコフ・プリボーイの近作「ツシマ」が、私達に雄弁な描写を与えている。
 アドミラル・トーゴーの勇名が世界に轟いたのは、それらの内的外的の特殊な時代的特徴の濃い諸要点の結合の結果であった。元帥ほどの人物が、そこを見落していなかったことは、彼の日常生活の簡素な心がけや、歴史の上に箇人的武勇を誇示することを嫌ったというところにあらわれていると見ることが出来る。
 ところが、元帥をかこむ社会関係においてその心持は、常に十分活かし得ないで、とかく偶然化されると同時に、自身も所謂矩を越え得ず、経済機構の逼迫につれ反動的な力が増すにつれ、いつしかそのために利用される存在とならざるを得なかった。
 お祖父様がお祖父様だから、というところから強制され、生じる無理は、家庭を支配する空気の中に二六時中何か否定的方面の作用を営んでいることは、誰にも推察される。良子嬢は、その総体の生活気分をひっくるめて「面白くない」という表現を与えている。
 うちがそういう事情で面白くない。面白そうなところと目されたのがカフェーであった。小市民階級の娘たちが、うちが面白くないので、飛び出して、例えば映画女優になりたいとか、ダンサーを志すとか、いうことは屡々《しばしば》あり、そこには客観的に見た当否は別とし、自身の才能についてのぼんやりした選択が認められる場合が多い。よほど質の低い、地方からポット出の十八九の娘ぐらいが、カフェー女給は面白いと単純に考える可能性をもっている。いくら職業をさがしてもないから、到頭食うために女給になったという若い女は数多く、それは現在の経済危機の増大につれ増加して来ている、別箇の問題であると思う。
 良子嬢が東郷元帥の孫としてのつまらない生活の反対物をカフェーに見出したところに、子供のうちから消費生活にだけ馴らされた娘の気分と、今日の貴族階級が生活感情の実質においては、赤化子弟に対する宗秩寮の硬化的態度に逆比例するデカダンスや低俗なエロティシズムに浸透されていることが分る。
 良子嬢によって実行された十七日女給の試みが、最も無邪気な貴族令嬢の映画好みのアバンチュールまたは、ナンセンスな茶目ぶりと解釈されるにしても、やはりそこには、良子嬢がああいう階級の一部の若い連中のひそかな興味の代弁人であったことだけは顕著なのである。
 日露戦争から今日まで僅か三十年経ったばかりである。その祝祭は、様々の戦勝追憶談として華々しく新聞雑誌に連載されている。けれども、この三十年間に、われわれの住んでいる階級、社会はどのように推移して来たことであろう! ごく小さい形をとってあらわれた例をとって見ても、一方に東郷良子の女給ぐらしがあり、他方に転向させられて自殺した岩倉の娘の人の胸を打った進歩への献身の実例がある。後の方の例を滅薙せんとする法規を改正し得ても、前者のような芽生の優生学上から見てのくされを如何ともなし難いところに、戦勝談からはも
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