、終る、沈黙。やがて、聴とれていたみさ子が、感動の溜息とともに頭を擡げる。
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みさ子 いいじゃあないの?
英一 何にしろ伊太利語は響がいいな。
みさ子 ほんとにいいわ。(詩句を暗誦する)
Caden stanche le foglie al suol, Bianche strisce serpon sul l'onda, ……
歌えたら、どんなにいいでしょう!
谷 稽古なさい。
みさ子 駄目よ、私の声は。――ね、だけれども、誰でも、時々、種々のことを感じて、感じて、もう歌でも歌わずにいられないようになることがあるでしょう?
そんな時、はあっと、すっかり自分の心持を歌いつくせたら、どんなにか嬉しいだろうと思うわ。私なんか、自分の感動を、まるで現わせないんですもの(だまろうとし、また、我知らず云いつづける)もとなんか、一寸悲しいことでも考えて、涙を一粒こぼせば、すっかり気分が変ってしまったけれども、この頃は――(独白的になる)だんだん、だんだん胸が一杯になって来るばかりですもの。歌いたいわ。ほんとに歌ったら好いと思うわ。歌って、すっかり私の悲しさや、寂しさや種々なものを、みんな空へ溶かしてしまうの……
谷 みさ子さん。歌えないでも、あなたの寂しさや悲しさが飛んで行ってしまう法を教えてあげましょうか。
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(英一、きっとして谷の方を見返る。谷、関せず。)
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みさ子 (自分の考えに沈んだまま、漠然と)何なの?
谷 奥平さんを、もっとあなたへ引つけて置くんです。心持の上でね。
英一 (嫉妬を感じるように)おい、詰らないことを干渉するなよ。みさ子さんだって――
谷 一人前の淑女だ、というのだろう? 決して失礼なことを云いやしないよ。僕だって一箇の人間だからね。(声を大きくし)ね、みさ子さん、あなたは自分の歓びも悲しみも、ただ奥平さんにだけ的を置いていらっしゃるでしょう?
みさ子 (単純に)そうよ。
谷 だから、奥平さんは、平気であなたを打っちゃって、青だの、赤だの1.2.3.ばかり書いていらっしゃるんです。
みさ子 だって――私は、奥平ほか――奥平だからこそ、一緒に楽しんでくれればほんとに嬉しいんだし、そうでなければ淋しいんだわ。ほかの人なんか――いくら私を放って置いたって平気よ。
谷 実にはっきりしたもんですね。(笑う)然しね、これは、青二才の僕が云うのじゃあなくて、ちゃんとした大学者も云うことですがね、異性間の感情というものは、決してそれほど簡単明瞭に片の付かないものなのです。だから御覧なさい、あなたの方こそ、そう、はっきりしているけれども、それが果して奥平さんの胸にどれだけ響いているか、疑問でしょう?
みさ子 ――それは解らないわね。安心しているのか、もうどうせ他に向きようもないときめて、放って置くのか、……。
英一 (突然、口を挾む)こういう問題は、議論すべきものじゃあないと、僕は思うね。時間が自ら証明する。まして、みさ子さんなんか、失礼だけれども、結婚してから、半年ほかほど経たないんだもの。傍から攪乱するようなことは……。
谷 ――攪乱は穏やかでないね。――君は、みさ子さんが、僕の一寸云うこと位で支配される人だと思うのか?
英一 (曖昧に)そうじゃあなかろうさ。然し――
谷 それに、夫妻というものだって、どれほど、鶴と亀とでお伽噺にしようとしたって、結局生きている人間の、男性と女性との生活だろう?
英一 そんなことは定っている!
谷 それなら、一般論として、男性女性の相対的関係を話したって、どこに悪い処もない筈だ。
英一 (焦々し)一般論に止っていればよいさ。然し僕は……
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谷の、耀いた、冷静な眼で見つめられ、英一、むしゃくしゃとなる。
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谷 仕舞まで話させてくれ。――それでね(みさ子に向い)人間は通性として、反動的なものです。自分が、何なく手に入れられ所有されると定ったものには、何といっても興味が薄れ、無感興になってしまうが、どうも難しい、余程の忍耐や手段を講じなければ、到底指も触れられないとなると、たとい、実際そのものの価値は低くても、人間は熱中し夢中になる。だからまあ、選挙などというものが、飽きもせず亢奮的《エキサイティング》な訳でしょうがね。――同じ心理が、矢張り、異性間の感情にもあるのです。
みさ子 (率直に)思わせぶりがいいの?
谷 まさか!(苦笑)そればかりということじゃあありますまい。――然し、夫婦の感情が鈍重《ダル》になるのは、確に一つは、互がもうすっかり互の所有になりきって、動きの取れない処にあるんだろうと思いますね。一方からいえば、もう死ぬまで、厭でも応でも、この男、この女
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