云えないけれども。つまり、こういうことになるのね。或る人が、誰にきかせても、正しいとほか云われないような考え[#「考え」に傍点]を持っているとするのよ。考え[#「考え」に傍点]よ。友達の間は、或る程度まで、その考え[#「考え」に傍点]だけで、つき合い調和して行けると思うわ。けれども、結婚した生活では、その考え[#「考え」に傍点]と、実際の物事に触れて起って来る、その人のしんからの心持[#「しんからの心持」に傍点]とが、どの位ぴったりしているか。それが直接の問題になって来るのね。だから、いくら、その考えが、思想なり、理論なりとして間違ったものではなくても、自分が、事実、胸ではこだわっていながら、正直にそれを見ないで、自分も相手も、ただ理攻めにしようとするなんか、ほんとに堪らないわ。
谷  (真面目になり)あなたの話しようが、ひどく抽象的だが、人間が純粋か不純粋かということが、第一の問題だということでしょう?
みさ子 そうね、そういうことになるでしょう。
谷  昔から、殴られても、実意のある亭主が好いというのは、そこでしょう。
みさ子 ――とにかく、厭なら厭、好いなら好いで、蕊に一点の曇もないような人があったら、どんなにいいでしょうね。言葉の奥を考えずに、そう[#「そう」に傍点]と云っただけで安心していられるようだったら……
谷  (しげしげとみさ子を見る)あなたもだんだん大人になりますね。
みさ子 (片頬笑む)――だから、朝子さん、吉沢さんね。あの方のことだって、私が、何も権威あるらしい口は利けないのよ。お互に、学校の成績とか、手腕じゃあないわ。内の内の、内のものを、見極めなければならないんですもの。――各々の直覚、心の力と、運。ね?
谷  ところが、どれほど鋭い天稟《てんぴん》の直覚を持っていたって、多くの場合、日本の現在の状態では、その触角を動す余地さえ、ないじゃありませんか。いやしくも、わが心のエッセンスを凝《こら》して、その底までしみ入ろうとするような価値のあるサークルは、皆、煉瓦の塀で囲まれている。少し云い過ぎかもしれないが、僕から見れば、あなただって、自由が最も必要な時期がすんでから、その必要を高唱し得るのだ。びっくり箱の蓋を開ける前に、中から大凡《おおよそ》どんな形のものが出るか、予め教えて下さっただけ、他人《ひと》の親より、あなたの御両親は優種だった。
みさ子 奥平と交際させてくれたこと? 比較すれば、有難く思わなければいけない訳ですわね。だけれど――(苦笑)奥平もその時は、未婚者で、私の家に遊びに来て、まさか――数字ばかり書いてもいられなかったでしょう。
谷  はははは。然し、何ですね――(躊躇する)
みさ子 (無邪気に)なに?
谷  いや――
みさ子 ――(次第に亢奮が鎮る。先刻から自分と谷とばかり喋っていたのに心付き)まあ、随分ひどい御主人役ね、一人で喋り込んで。
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(先ほどから、硝子扉の傍の椅子にかけ、独りでレコードを見ている英一に)
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みさ子 どう? 何かお気に入りそうなのがあって?
英一 大分|殖《ふ》えましたね。
みさ子 シャリアピンやなにかのが来たからでしょう?
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(立って、英一の処へ来る。英一椅子から立ち、みさ子を掛けさせる。余り浮かぬ顔。ヌックの方で、こちらに背を向け庭を見ている谷の方を一寸見、低声に)
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英一 あれに、矢鱈《やたら》なことを云ってはいけませんよ。
みさ子 (かがんでレコードを調べていた手を止め、仰向き、訝しげに)何故?
英一 (尚低声に)あいつは危険だ。ドン・ジュアンだもの……
みさ子 (笑う)平気よ。(改まり)私、誰にきかれたって、悪いことなんか云いはしません。
英一 あなたはその気でなくたって――
みさ子 いいのよ。(気を悪くし)じゃあ、貴方は、二年も前から、そんな人を、私のお友達にさせた訳?
英一 (言葉なし。みさ子が取ろうとするレコードを手早く抜取ってやる)――遣りますか?
みさ子 どう?
英一 いいでしょう。
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英一、把手を廻し、針をつけなどしてレコードをのせ、蓋をする。
みさ子は、椅子の上手よりにゆっくりと靠《もた》れ、英一は反対の腕に軽く腰を休ませて聴く。谷、煙草を持ち、時々歩き、立ちどまり、凝っと、みさ子の集注した横顔を見守る。暫くの間、ピアノ、ヴァイオリンの前奏。
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谷  何です?
みさ子 (その方は見ず、低い声で)アディオ。
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静かな、明るい部屋の裡に、伊太利《イタリー》の小曲《リード》が、感じを以て満ちる。
戸外では、雲が湧いたと見え、微かな陰翳が、輝やいたフォールディング・ドーアの面を過ぎる。歌
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