一度も権力にたいする批判力としての自主性、自身を建設する力としての自立性をもたなかった伝統にわずらわされ、つまりは戦争遂行という野蛮な大皿の上に盛りつけられて、あちら、こちらと侵略の道をもち運ばれなければならなかった。
 この過程に、明日への文学の問題として、きわめて注目すべきことが、かくされてある。それはそういう立場におちいった作家たちにしろ、あれだけ深刻な戦争の現実の一端にふれ、国際的なひろがりの前で後進国日本の痛切な諸矛盾を目撃し、日に夜をつぐいたましい生命の浪費の渦中にあったとき、一つ二つ、あるいは事態そのものについて、一生忘られない感銘をうけたことがなかったとは、けっしてけっしていえないであろう。自分のこれまでの人生なり社会なりの見かたを変えるなにかが加えられた、と感じる瞬間が必ずあったろう。戦争については周知のような態度であった尾崎士郎のような作家でさえ、あわただしい雑記のうちに、印象が深められずに逸走してしまう作家として苦しい瞬間のあることをほのめかしている。火野葦平が、文芸春秋に書いたビルマの戦線記事の中には、アメリカの空軍を報道員らしく揶揄しながら、日本の陸軍が何十年
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