歌声よ、おこれ
――新日本文学会の由来――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)足の萎《な》えた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四六年一月〕
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 今日、日本は全面的な再出発の時機に到達している。軍事的だった日本から文化の国日本へということもいわれ、日本の民主主義は、明治以来、はじめて私たちの日常生活の中に浸透すべき性質のものとしてたち現れてきた。
 民主という言葉はあらゆる面に響いており、「新しい」、という字を戴いた雑誌その他の出版物は、紙の払底や印刷工程の困難をかきわけつつ、雑踏してその発刊をいそいでいる。
 しかし、奇妙なことに、そういう一面の活況にもかかわらず、真の日本文化の高揚力というものが、若々しいよろこびに満ちた潮鳴りとして、私たちの実感の上に湧きたち、押しよせてこないようなところがある。これも偽りない事実ではないだろうか。
 この感じは、新しく日本がおかれた世界の道にたいする懐疑から生じているものでないことは明かである。われわれ人民が、理不尽な暴力で導きこまれた肉体と精神との殺戮が、旧支配力の敗退によって終りを告げ、ようやく自分たち人間としての意識をとりもどし、やっとわが声でものをいうことができる世の中になったことをよろこばない者がどこにあろう。日本は敗戦という一つの歴史の門をくぐって、よりひろく新しい世界人類への道を踏み出したのである。
 そういうことは、すべての人によくわかっている。そして、一人一人、もうすでに、外的な事情に押されながらにしろ、そういう方向に爪先をむけて進んでいる。しかも、歩きだしつつあるそれらの瞳のうちに、なにか自身を把握しきっていない一種の光りが見られるのは、なぜだろうか。
 社会全般のこととしていえば、この数ヵ月間の推移によって、過去数十年、あるいは数百年、習慣的な不動なものと思われてきた多くの世俗の権威が、崩壊の音たかく、地に墜ちつつある。その大規模な歴史の廃墟のかたわらに、人民の旗を翻し、さわやかに金槌をひびかせ、全民衆の建設が進行しつつあるとはいいきれない状態にある。なぜなら、旧体制の残る力は、これを最後の機会として、これまで民衆の精神にほどこしていた目隠しの布が落ちきらぬうち、せいぜい開かれた民衆の視線がまだ事象の一部分しか瞥見していないうち、なんとかして自身の足場を他にうつし、あるいは片目だけ開いた人間の大群衆を、処置に便宜な荒野の方へ導こうと、意識して社会的判断の混乱をくわだてているのであるから。
 自由という名は耳と心に快くひびくが、食糧事情の現実は、わたしどもの今日に、饑餓と大書してそびえ立っている。開放と不安との間に、橋の架けかたを知らされずに近代を通ってきた正直な日本の幾千万の人々が、ひしめいているのである。
 文学が、こういう未曾有の歴史の場面において、負っている責任はきわめて大きい。そしてまた、文化・文学の活動にたずさわる人々の胸中には、言葉にあらわしきれない未来への翹望がある。それにもかかわらず、なんだか、前進する足場が思うように工合よく堅くない。すべり出しの足がかりがはっきりしない感じがあるのではなかろうか。自身にとっても、十分新らしかるべきものと予想されている日本の今日の文学を、どこから本質的に新しくしてゆけばよいのか、わかっているようでわからないのが、本当のところらしく見うけられる。
 日本の文学が、今日そういう足の萎《な》えた状態にあることは、まったく日本の明治文化の本質の照りかえしである。明治維新は、日本において人権を確立するだけの力がなかった。ヨーロッパの近代文化が確立した個人、個性の発展性の可能は、明治を経て今日まで七十余年の間、ずっと封建的な鎖にからめられていた。したがって、西欧の近代文学の中軸として発展してきた一個の社会人として自立した自我の観念も、日本ではからくも夏目漱石において、不具な頂点の形を示した。リアリズムの手法としては、志賀直哉のリアリズムが、洋画史におけるセザンヌの位置に似た存在を示してきた。
 一九一八年第一次世界大戦終了の後、日本にも国際的な社会変化の波濤がうちよせ、人間性の展開および文学の発展の基盤としての社会性の問題がとりあげられた。けれども、徳川末期から明治へと移った日本文学の特色の一つとしての非社会性がつよい余韻をひいていて、文化・文学の全面につねに反動の力が影響しつづけた。
 ところが十四年前(一九三一年)日本の軍力が東洋において第二次世界大戦という世界史的惨禍の発端を開くと同時に、反動の強権は日本における最も高い民主的文学の成果であるプロレタリア文学運動をすっかり窒息させた。そして、日本の旧い文学は、これまで自身の柱とし
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