とっての何と天恵であろう! この宿には一年以上滞在する客が珍しくないということだ。本当に、活動から遠のく不安さえ感じなかったら、この自然とともに根気よく、一年でも二年でも落付いていられるだろう。硫黄泉のききめばかりではない。××屋×太郎君が、楢木立の奥の温泉神社へ「報神恩」という額を献納したのも、当を得たことだ。然し(山の神様笑いながら仰云った。この額はちっと手軽るすぎるね)。
東京から一人新しい連れが加ったりしたので、十六日の快晴を目がけ、塩原まで遠乗りした。緩《ゆっ》くり一時間半の行程。皆塩原の風景には好い記憶をもっていたのでわざわざ出かけたのであったが、今度は那須と比較して異った感じを受けた。箒川を見晴らせるところというので清琴楼に一泊した。いい月夜で、川では河鹿が鳴く、山が黒く迫って、瀬の音が淙々と絶えない。燈を消し、月あかりで目前の自然を眺めていると、余り所謂いい景色という型に嵌っていて、素直に心にうけとれない。妙な心持であった。子供の時分、幻燈で白い幕の上に映して見た月夜のどこかの景色、水も山も蒼い光に包まれたところがまるでその朧な思い出のうちにある、幻燈の通りだ。この
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