の保護を受けたそうに見えた。
 低い、然し熱心な調子で、いろいろ云う言葉を耳にききながら、彼女は、瞼を下して、枕の上にある友の顔を見た。なるほど、重る不幸のあった後、お恵さんはめっきり年を取って見えた。飾りけのない束髪にあげた耳の後や、眼尻には、歴々と疲れた衰えが見える。然し……年を考え、自分の健康を思うと、お幾には、それほど、お恵さんがしんから弱っているとは信じられなかった。
 たった、四十四や五で、歩いても息が切れるほど老衰するものだろうか?
 お幾は、年頃の時代から、頭の痛いことさえ知らなかった。肥満し、動作が億劫にこそなれ、彼女は、今でも三十代と違わない活力を裡に蔵しているのである。
 彼女には、お恵さんの弱りも、失望し、落胆した心から出るとほか思えなかった。
「病は気から」ということさえもある。――
 それにしても、お幾の心の中では、次第に、こんなことでお恵さんが勇気を挫き、信仰の方も疎《おろそか》にしはしまいかという一事が不安になり始めた。
 なかなか熱心な人を紹介されたと云って、自分も喜ばれている。一方から考えれば、それだけ、自分の信心力の強さも証明されたことになった。お恵さんのためにも、ここで止めては、今までの辛棒も、まるで無になると、思わずにはいられなくなったのである。
 まして、物事には、何でも峠がある。字を稽古しても、琴を習っても、始めの間は面白いように上達する。こんなに手が上るかと、驚ろかれるほど進歩する。然し、或るところまで行くと、急にぴったりと先が塞《ふさが》り、もうどうにも仕方ないように感じることがある。いくら努めて見ても、目に立つ進境はなく、仕舞には、絶望の吐息と一緒に投げすてて終いたくさえ思う。信仰にも、同じように、そういう試みの時期があるのを考えると、尚更、お幾には、黙っていられない心地がした。
 自分でも経験がある。そこさえ辛棒し、目を閉った気で根を尽しているうちには、いつか晴れ晴れとした天地に入れる機運が廻って来るのである。
 水を割った葡萄酒などを飲み、幾分元気になった頃、お幾は、そろそろとお恵さんに尋ねた。
「あなた、この頃も毎日通っておいでなの?」
「ええ。通ってはいますけれどね……なにしろ遠いので――今日なんかはやっと家まで辿り着いた位ですわ」
「遠いったってお恵さんS町までですもの。ここからそんなじゃあありますまい? そうね、どの位あるか」
 お恵さんは、ぱっちりと眼を開け、心持上目で笑い出しながら、お幾を見た。
「あなた、御自分でお歩きになったことがあって?」
 お幾も、この、穏やかな問いには、急処を突かれた心持がした。半分は大儀から、半分は、余裕のある生活の習慣から、彼女は、十町と、自分の足で歩いたということはなかった。
 電車の通じる東京でありながら、それを利用出来ない不便な町筋を、寒い朝まだき、小一里歩かなければならない者の苦労を、お幾は、思っても見なかったのである。
 さすがに彼女も、直ぐには次の言葉が継げなかった。然し、お幾は、間もなく生れ付きの楽天的な気質で、さらりと心を取なおした。今、これ位のことで怯んでいるべき場合ではない。若し一寸でも、お恵さんの心に懈怠心がきざしているとしたら、それを剪《つ》んで、本道に還して遣るのは、自分を措いて、誰がするだろう。
「ねえ、お恵さん」
 お幾は徐ろに、口を切った。
「私は、どうもあなたの信心も峠に掛って来たと思いますよ。御自分ではまだ気がおつきなさらないかもしれないけれど――私も、随分、いろいろな人を見ていますからね」
「そうでしょうか……でも」
 床の上に坐り、羽織を着換えながら、お恵さんは、いつもの穏やかな調子で、反問した。
「峠にかかるにしては、あまり早いじゃあありませんか。お話を伺い始めて、いくらにもなりませんよ」
「時からいえばそうですけれどね――同じ痲疹《はしか》でも、早くしてしまう児と、大きくなってする子とありましょう? やっぱりあれと同じですわね。あなたも、ほんとの信心に入れる者か入れない者か、神様のお試しに逢い始めなすったのではないかと思いますよ」
 お幾さんは、それから、聴きての心を傷《そこな》わないように、しかも、自分の足場は一歩も譲らない熱誠で、神の懲戒ということを説明した。
 人間が、ただ肉体の安逸のみを貪る時、現れる神の憤りは、どれほど激しいものであるか。教祖ほどの卓越した婦人でも、自分の勝手から、何か神の御旨を奉じないことがあると、他人の力や薬の力では、何ともしようのない苦悩に遭った。あなたの体の苦しいのも、或は、魂のどこかに、怖ろしい懈怠心が起り始めたので、神様が予告して下さるためではないだろうか、というのが、お幾の推論なのであった。
「ほんとに、信心は、一大事ですよね。全く教祖様のおっしゃった『谷底へ落ち切れ』でね、神様から拝借ものの体を、我慾で劬《いたわ》っているうちは、どうしたって、本当の道には達しられないのです」
 自分の雄弁に自ら酔い、謹聴してくれる友の顔を見ると、お幾は、自分の身などを顧る余裕がなかった。福音の伝道者のように、彼女は亢奮を覚えた。
 単純なお幾は、それなら、実際、自分がどれだけの労役を信仰のために勤めているか、また、お恵さんの生理的状態は、事実に於てどうなのか、考える暇もなく、熱烈な発奮を促したのである。
 彼女に、仮借しない調子で、
「あなたの御信心は、そもそもの始りから、自分一身だけの安楽のためばかりでは、おありなさらないでしょう? いわば購いのためなのですものね。広田さんや誠之さんが、仕合わせな甘露台にお住みなされるように、また、この世では淑子さんも幸福でいらっしゃるように、御寄進をしていらっしゃるのでしょう」
と云われると、始めは、稍々《やや》驚のみを以て聞いていたお恵さんも、友の言葉に耳を傾けずにはいられなくなった。全く、神の心は、計り知られない。いつ、どこに、どんな啓示が潜んでいるか解らない。亡くなった良人、息子、また、ただ独り、いつも、黒い瞳で自分を見守っている娘のことを思うと、ふと弛緩した信仰の重大さが、新しい威力で、津浪のように迫って来た。
「私もね」
 お恵さんは、静かながら、偽りではない声を出した。
「決して、疎そかな心でいるのではありません。けれども、なにしろ弱いのでね――本当に……深い信仰にさえ入れないのかと思うと、こわいようになりますわ」
「それがいけないのですよ、お恵さん。自分で弱い、弱い、と云うのは、まるで、達者になろうとしないで、弱いのを、先に立ててついて行くようなものですもの。忘れるのですよそんなことは。そして、一心不乱に、身上《みじょう》助けをなさるの!」
 頭を使って、これ等の言葉を聞き分ければ、どこかに、お幾の、自覚しない身勝手が感じられたかもしれない。然し、誰一人、親しく自分を鼓舞してくれる者もなく、確かりなさい、と、肩を叩いてくれる者も持たないお恵さんにとって、これは、一方ならない、励しの言葉であった。
 とにかく、お幾の元気が、細そりと、蒼白い、お恵さんの肉体を貫いて、一種の電気でも通じるように見える。次第に、彼女自身も亢奮し、覇気を持ち、踏み出した道なら退くまいという勇気が、湧いて来るように感じるのである。
 素直なお恵さんは、この刺戟一つに対しても、お幾の友情を徳とした。
 彼女は、心から、
「ありがとう。私も確かりしますわ。本当に、自分の心ほど、自分で判るようで判らないものはないのですものね」
と云った。
「私も、せいぜい元気になりますよ」
 二人は、笑顔を見合わせた。
「そうですとも。私だって、出来ることなら、この体の半分も、あなたに足してあげたい位に思っているのですもの」
 自分の言葉が、快よく受け入れられた歓びで、お幾の血色よい顔は、一層つやつやと輝くように見えた。
 彼女は、気軽な滑稽を云いながら、淑子や女中を集めて、御持参の鮨の折を開いた。

 それから間もない或る朝のことであった。
 お恵さんは、いつものように、手軽な朝飯を終ると、身仕度をし、自分で夜来閉された門を開いて家を出た。ひどく靄《もや》の濃い朝である。
 ひっそりした午前六時過の天地は、一面、乳白色の、少しきな臭いような靄に包まれ、次第に昇る朝日に暖められた大気が、水のように身辺を流動する。
 奥には溶けるような薔薇色の輝やきを罩《こ》め、稀な人影を、ぼんやり黒く浮上らせる往来の様子は、彼女の心に、珍らしい美しさを感じさせた。
 ところ、どころの靄の切れめからは、チカチカと粉のように耀く杉の黄葉や樫の梢が見える。一間二間と、歩みにつれて拓けて行く足下の往来の上では、濡れ湿った小石の粒が、鋭い少年の眼のような反射をなげる。
 まだちっとも塵の立たない大きな屋敷の塀の内で、元気な犬が、胴震いをして頸輪を鳴らし、嗅ぎ音を立てながらあっちこっちしている気勢なども、如何にも快い十二月の朝らしく響いて来る。
 何に行手を遮られることもなく、寒く、しかも暖く靄と太陽とに纏まれて歩いていると、お恵さんの心には、何とも云えない平安が満ち溢れて来た。
 この道も、幾度通った処だろう。時には、明朝を想うさえうんざりして、のろのろ足を引擦って来たことのある路だ。
 それが、今朝は、まるで違った世界に在るように気持よい。自分が、近頃になく心持よく、若返ったように感じる通り、自然も、子供で、愉快な活力に横溢しているように思われるのである。
 彼女の足は、自ら軽々と動いた。こうやって行くと、まるで、勤めで、ここまで行かなければならないという歩行ではないような気がする。焦ることもなく、思い煩うこともなく、彼女は散歩のように楽な気分で、鎮った屋敷町を進んだのである。
 巡査の姿は見えない、とある交番の傍から、道幅の狭い、商売町にかかる頃、四辺の靄はもうすっかり霽《は》れ渡った。屋根の瓦や、眠りから醒めた小さい飾窓《ショーウインドー》に、チラチラと日が照る。店頭に動く小僧の姿、黒い外套に息を白く見せて行違う学生の通学姿等が、そろそろ、急しい午前七時の町筋を思わせる。
 起きたばかりの文房具店の横から右に曲り、また静かな裏通りに出ると、お恵さんの足は、何時の間にか速くなって来た。天理教会の支部は、もう一つ先の角を折れた坂上にある。今迄、あまりゆっくり歩き過たという意識と、先がもう遠くはないという考えが、我知らず彼女を急き立てたのである。
 お恵さんは、丁度先に行く中学生の足並に、後れまいとするような意気込みで、せっせと足を運んだ。そして、最後の角に在る寺の近くまで来かかると、彼女は、急に何ともいえない胸苦しさを覚え始めた。
 何かに驚きでもしたように、胸がドキリとしたかと思うと、俄に鼓動が烈しくなり、うっかり動いたら、忽ち倒れてでもしまいそうに、呼吸が迫って来るのである。
 鼠色の地味なコートの袂を合わせて胸を押え、お恵さんは、瞬間、どうしていいか、途方に暮れて立澱んだ。四辺には、介抱を頼むような家もなければ、人もいない。
 とにかく、凝っとして、落付けなければ、どんなことになるか知れない。先達って中からの経験で、お恵さんはこんな時、安静が何より必要なのを心得ていた。
 彼女は、出来るだけ、体のどこにも力を入れないように、足の幅だけ横いざりをして、往来の邪魔にならない道傍に退いた。
 何時の間にか、髪の生え際に、ねっとり冷たい汗が滲み出した。げんなりし、節々から力が抜けたようになり、お恵さんは、立ってもいられなくなった。
 彼女は、首を垂れ、胸を掻き抱いてそこに蹲《しゃが》んでしまった。
 あまり突然な変化で、何事が起ったのか、彼女自身にも解らないほどだった。今までのあらゆる現実は、いきなりふいっと消えてしまい、漠然とした、本能的な、寂しい、疲れた感覚ばかりが、体も心も、一杯に埋めてしまったのである。
 お恵さんは、背を向けた往来を、威勢よくガラガラと転って行く、牛乳屋の空車の音も聞かなかった。目の前に、顔を刺しそうに突出ている、尖った枳殼《からたち》の垣根
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