り、後は振向こうともしない冷酷さに義憤を発したお幾は、泊りがけで気の毒なお恵さんの片腕になった。
 物に熱中し易い彼女が、全心を焔のようにして掛った好意によって、お恵さんは辛くも愛子の葬儀を滞りなく済すことが出来たのである。いよいよ葬送もすんだ晩、一きわ寥しい部屋に二人が抱き合うようにして流し合った涙は複雑なものであった。けれども、総ての複雑さを一つに纏めて、結局の処から戻って来るものは、お互の限りない友愛に対しての悦びと感謝とであった。
「ありがとう、ほんとにお世話様になりました」
 そう云いながら頭を下げるお恵さんの手をとって、お幾は、さも飛んでもないというように振った。
「まあお礼! お礼なんかはよその人にして下さい」
 こんな時彼女の胸には、等しく深い感激が漲った。けれども、何か、もう一歩お幾には足りないもののあるのを争うことは出来なかった。
 彼女の胸にはどうしようもないうちに来てしまった第二番目の禍を送って、更にその次の不幸が危ぶまれていたのだ。が、然し口に出してそれを警告する勇気はない。二人が打とけた心持で話し合っている時も、泣き合っている時も、そのことが心に浮ぶと、お幾はフト瞳をかえして、最愛な友の面を眺めずにはいられない気分になって来るのである。

 その日も、お幾は厚く着膨れた襟の下に同じ思いを抱きながら、お恵さんの門前で俥を降りた。
 寒い日である。まだ二七日を過ぎたばかりの森閑とした家の中に、竦むようにしてお恵さんは炬燵に当っていた。
 心安だてに、案内も待たず鴨居につかえるような体をずっしりと運んで来たお幾を見ると、彼女は思わず縫物を手からおいて悦んだ。
「まあ丁度好いところへ来て下すったこと。お寒いのによく来て下さいましたね、さあこちらへ。冷えるからお厭でなかったらあなたもお当りなさいな。淑子さん、あついお茶を入れて上げて頂戴」
 お恵さんはほんとに嬉しそうに、拡げた縫物を片寄せながら、わざわざ肥ったお幾のために凭《より》かかりのある壁際の席をあけた。
「毎日毎日しぐれたお天気ですことね、しかたがないからこんなことをしております、木魚のお布団ですよ、綺麗でしょう?」
 お恵さんは今まで縫っていたらしい友禅模様の小布を抓《つま》み上げて、ヒラヒラ動かしながら微かに笑った。
 けれども、友達の赤くかさかさになった眼の廻りや、濡れたままこわ張ったような頬の色を、どうして見のがすことが出来よう。
「お恵さん、あなたは駄目ですよ、そうやって独りで思い出しちゃあ泣いていらっしゃるんだもの。さあさあ、もうそんな縫物はおやめおやめ、そんなものを持出すから尚気が滅入っておしまいなさるんじゃあありませんか」
 お幾は、言葉で云い表せない親切をこめた荒々しさで、お恵さんの手から、派手な色の美しい小布を奪いとった。
「何か気を紛らすようにおしなさいましよほんとにあなたは……」
 お幾はあわてて洟《はな》をかんだ。
 彼女の姉らしい叱責にすなおな微笑で答えながら顔を擡げたお恵さんの眼には、悲哀と信頼とが混り合って輝いて見えた。彼女は、やがていつもより一層しんみりとした口調で、ぽつぽつと話し出した。
「この頃はね、外は寒いし、家にいても気分が捗々《はかばか》しくないので、ついこうやって炬燵にずくんだままで随分いろいろなことを考えて見ました。今までは何や彼やごたごたして一度も考える気で考える時がなかったようなものですものね」
 お幾は何と云ってよいのか分らずに蒼白い小さいお恵さんの面を眺めた。
「考えて見ると、好い加減な暮し方をして来たのだと思いますよ。ほんとに自分で気のつかないほど好い加減なのですね。何でも彼でも上面だけ考えていたのですもの。――いつかあなたがおっしゃいましたね、あの広田が亡くなったのは只事でないって……」
「あれは、お恵さん私……」
「いいえ大丈夫。決してそういう積りじゃあありませんの、ほんとにね広田のなくなったのも、誠之が死んだのも、この頃では何か訳のあることなのだと気が附き始めたのです。あの時こそ、意地であなたにたてついたけれどもね」
 お恵さんは寂しい笑顔でお幾を見、眼をふせてじっと両手で捧げるように持った茶碗の中を眺めた。
「あなたも御存知の通り、広田は正しい人でした。誠之だって、私の眼から見れば人並よりは何か違ったよいものを持って生れていたと思われます、それは勿論親の贔屓目《ひいきめ》かも知れませんわ。けれどもたとい贔屓目にしろ、自分が時には頭を下げるような児を、思いがけないことで取られて見ると――何か大変な手落ちをしたような相済まない心持が致します。あなたはお仕合せで、お子さんをお一人もおなくしになったことがないからお分りにならないでしょうね、けれども子供に死なれるのは――本当に辛いことです。自分が死ぬよりも幾層倍苦しいか分らないと思いますわ」
 微笑もうとしたお恵さんの唇は空しく震えたまま、眼から涙がこぼれ落ちた。
 悲痛な言葉を聞き、お幾は殆ど身動きもならないような何物かに心を圧倒された。何か云ったら、飛んでもないことを云いそうで――お幾は今自分がものを云ったら、云うほどのことが、皆空虚なお坐なりに聞えそうな不安な気がした。「………」丸いお幾の顔には、当惑に近い苦しげな表情が表れた。
「それでね、考えれば考えるほど、いても立ってもいられない心持がして来るのです。きっと、自分が親として、また妻としてあまり至らないので、神様が惜しんであの子をお取上げになってしまったのではあるまいかとさえ思います。ほんとに広田や私の善いところだけを選んで生れついたような子でしたもの――」
「まさかそんなことがあって堪るものですかお恵さん、あなたがあまり思い過しておしまいになるのですよ、けれども――」
 お幾は急に心を横切った或る内密な喜びで、我知らず顔中を輝かせた。
「若しあなたがそうお思いなさるのなら、心のすむようになさるのは好いことですわね」
「そうでしょう? ですからあなたもおっしゃるように、今度をいいきっかけにして私、天理教のお話でも伺って見ようかしらと思い立ちましたの。若し私が不束《ふつつか》な故で、淑子まで、可愛そうに、不仕合わせになったらそれこそ生きてはいられません。誠之のためにも何かの供養になるでしょう」お恵さんの頬にいつも絶えない、弱々しく淋しい微笑がまたそっと忍び込んだ。
「そして、皆にお詫を致しますの」
「まあお恵さん……」
 ふと会った視線を避け、お幾は思わず伏目になった。かねてから思いもし願いもしたことが、現在の事実となって目前に現れて見ると、彼女は些《すこし》も予想したような、晴々とした大悦びは感じ得なかった。
 却って、何か今迄の自分の経験の中にはないものを、お恵さんは確かりと我ものにして、小さいながら、弱々しく見えながら厳かな重みを持て据ったような心持がする。お幾は、先刻《さっき》までは十分に重かった自分が、俄にふうっと他愛もなく軽いものになったような心持がした。
 けれども、もう二十年も以前にその青春時代の教育をうけた彼女には、自分の胸に湧き起ったそれ等の気分がどこから来たのか細かに考えるだけの力は持たなかった。
 富裕な、地上的にあらゆる幸福を身に備えた者が、それ等の甘美な恩寵から、不意な災禍で追放されることを恐れて始めた「信心ごと」は、不幸に不幸を重ねた者が、底の底から求めて神に双手を延した心持を、そう容易く直感することは出来ない。――
 然し、お幾は、長く「考えても解らない理窟」に拘泥する質ではなかった。彼女は間もなく持前の愉快さを回復した。
 長い時間と、身が切られるような失敗を経験させられた友が、ようよう来るべき所へ来たのだという感動と、その道では先輩であるという明るい誇とで熱くなったお幾は、お恵さんが折々目をあげて彼女を見たほどの雄弁で蓄えられていた神の加護を披瀝した。
 翌朝七時にもならないうちに、お幾は、ことごとしい紋服でお恵さんの家を訪れた。彼女に連れられて、お恵さんは生れて始めて、注連《しめ》を張り渡した天理教会の門を潜ったのである。

 とうとう、お恵さんを天理教の信者、少くとも信心への第一歩を踏み出させたお幾の悦びは、例えるものもないという風に見えた。
 友達に会うと、彼女は一人一人に、
「まあ今度は、あのお恵さんもね、我を折ってとうとう神様にお縋り申すようになりましたよ。有難いもので長年の誼《よし》みなどというものは、矢張りどこかに、神様の御心があるのですね、まあまあこれで、やっと私も一つ御奉公が出来ました」
と、吹聴する。
 誰の目にも、彼女は悪意のない得意の絶頂にいると見えた。今まで何かにつけて、自分の鈍い感化力を嗤《わら》っていた友達も、もう云うことは見出せまい。あんなに難しそうに見えていた一大事を、あれほど手際よくしおおせられようとは思わなかった。
 それ等の快感で、お幾の胸の中では、ここまで来るにお恵さんが、どれほどの涙と苦痛とを経たかなどということは、忘れるともなく忘られていたのである。
 精力家で、半日と凝っとしていられないお幾は、今までも、ちょくちょくお恵さんの家を見舞っていた。けれども、友が息子を失ってから、まして、信心を始めるようになってから、彼女の訪問は、一層その度数を増した。辞退するお恵さんに、
「何、構うもんですか、外の空気を吸うだけ、私の体にだって好いのですもの」
と、彼女は三日にあけず、美しい黒塗の俥を止めるのである。
 丁度土曜日に当る、或る朗らかな昼頃、お幾はいつものように、友の門前で俥を降りた。
 片手に、好物の「けぬき鮨」の折を持ち、曇硝子を嵌めた格子の前に立って案内を乞おうとすると、中からは、何かただならぬ気勢が洩れて来た。
 二三人、人が塊《かたま》って何かしているらしい。他に来客でもあるのかと、瞬間躊躇したお幾は、間もなく、
「お母さん、お母さん、これ!」
と叫ぶ、遽しい淑子の声に驚ろかされた。
「奥様、お湯を……大丈夫でございますか?」
 おろおろした下女の声に混って、聞き取れないほど低くお恵さんが何か答えるらしい様子がする。
 お幾は、がらりと格子を開けた。見ると、上り框《かまち》に、真蒼な顔をしたお恵さんが、女中の腕に抱えられるようにして、腰かけている。鬢の毛をほつらせたまま、危うく首だけを延して、娘の手から、湯か水かを飲もうとしているところなのである。
「まあ! 奥様」
 助かったというような女中の声と、
「どうなすったんですよ! まあ」
と云うお幾の言葉が、同時に二つの唇から迸った。
「お帰りになると、急に胸が苦しいとおっしゃいましてね」
「――息が迫って息が迫って……」
 お恵さんは、コートを着たままの体を、物懶そうに起した。
「とにかく、こんな端近じゃあ仕方がない。さあ淑子さん」
 お幾は、強いて快活に、怯えている娘を引立てた。
「この大きなおばさまが手伝ってあげるから、お母様をお部屋に入れてあげましょう」
 急いで展べた床の上に、羽織も何も着たまま横になると、お恵さんは暫く、身動きもしなかった。
 この天気のよい日に、彼女の額際から頬にかけては何ともいえず蒼ざめた寒い色が漂っている。薄い眉の下に、小さく寂しげに閉じた瞼の形、唇を微に開き、だんだんゆっくり深く呼吸し始めた友の胸の辺を、お幾は息を潜めて見守った。
「お医者様を呼ばないでもいいかしら……」
 独言のような彼女の呟きに、お恵さんは、間を置いて、静かな声で返事をした。
「もう大分楽になりましたわ、ありがとう……ようござんすよ」
「大丈夫ですか?――どうしたんでしょうね」
 傍から、淑子や女中が、近頃、彼女は、よく遠道をした後に、胸が苦しいと云っては暫く横になることがあると説明した。
 時には、指の先まで冷や冷やになり、気でも遠くなるのではあるまいかと思うことさえある、と云う。
 女主人と、まだ幼い娘きりの家に仕え、万一、何事かあると、第一責任は、自分が負わなければならないような位置にいる女中は、よい機会に、出来るだけ、お幾
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