福を身に備えた者が、それ等の甘美な恩寵から、不意な災禍で追放されることを恐れて始めた「信心ごと」は、不幸に不幸を重ねた者が、底の底から求めて神に双手を延した心持を、そう容易く直感することは出来ない。――
然し、お幾は、長く「考えても解らない理窟」に拘泥する質ではなかった。彼女は間もなく持前の愉快さを回復した。
長い時間と、身が切られるような失敗を経験させられた友が、ようよう来るべき所へ来たのだという感動と、その道では先輩であるという明るい誇とで熱くなったお幾は、お恵さんが折々目をあげて彼女を見たほどの雄弁で蓄えられていた神の加護を披瀝した。
翌朝七時にもならないうちに、お幾は、ことごとしい紋服でお恵さんの家を訪れた。彼女に連れられて、お恵さんは生れて始めて、注連《しめ》を張り渡した天理教会の門を潜ったのである。
とうとう、お恵さんを天理教の信者、少くとも信心への第一歩を踏み出させたお幾の悦びは、例えるものもないという風に見えた。
友達に会うと、彼女は一人一人に、
「まあ今度は、あのお恵さんもね、我を折ってとうとう神様にお縋り申すようになりましたよ。有難いもので長年の誼《よし》みなどというものは、矢張りどこかに、神様の御心があるのですね、まあまあこれで、やっと私も一つ御奉公が出来ました」
と、吹聴する。
誰の目にも、彼女は悪意のない得意の絶頂にいると見えた。今まで何かにつけて、自分の鈍い感化力を嗤《わら》っていた友達も、もう云うことは見出せまい。あんなに難しそうに見えていた一大事を、あれほど手際よくしおおせられようとは思わなかった。
それ等の快感で、お幾の胸の中では、ここまで来るにお恵さんが、どれほどの涙と苦痛とを経たかなどということは、忘れるともなく忘られていたのである。
精力家で、半日と凝っとしていられないお幾は、今までも、ちょくちょくお恵さんの家を見舞っていた。けれども、友が息子を失ってから、まして、信心を始めるようになってから、彼女の訪問は、一層その度数を増した。辞退するお恵さんに、
「何、構うもんですか、外の空気を吸うだけ、私の体にだって好いのですもの」
と、彼女は三日にあけず、美しい黒塗の俥を止めるのである。
丁度土曜日に当る、或る朗らかな昼頃、お幾はいつものように、友の門前で俥を降りた。
片手に、好物の「けぬき鮨」の折を持ち、曇硝子を嵌めた格子の前に立って案内を乞おうとすると、中からは、何かただならぬ気勢が洩れて来た。
二三人、人が塊《かたま》って何かしているらしい。他に来客でもあるのかと、瞬間躊躇したお幾は、間もなく、
「お母さん、お母さん、これ!」
と叫ぶ、遽しい淑子の声に驚ろかされた。
「奥様、お湯を……大丈夫でございますか?」
おろおろした下女の声に混って、聞き取れないほど低くお恵さんが何か答えるらしい様子がする。
お幾は、がらりと格子を開けた。見ると、上り框《かまち》に、真蒼な顔をしたお恵さんが、女中の腕に抱えられるようにして、腰かけている。鬢の毛をほつらせたまま、危うく首だけを延して、娘の手から、湯か水かを飲もうとしているところなのである。
「まあ! 奥様」
助かったというような女中の声と、
「どうなすったんですよ! まあ」
と云うお幾の言葉が、同時に二つの唇から迸った。
「お帰りになると、急に胸が苦しいとおっしゃいましてね」
「――息が迫って息が迫って……」
お恵さんは、コートを着たままの体を、物懶そうに起した。
「とにかく、こんな端近じゃあ仕方がない。さあ淑子さん」
お幾は、強いて快活に、怯えている娘を引立てた。
「この大きなおばさまが手伝ってあげるから、お母様をお部屋に入れてあげましょう」
急いで展べた床の上に、羽織も何も着たまま横になると、お恵さんは暫く、身動きもしなかった。
この天気のよい日に、彼女の額際から頬にかけては何ともいえず蒼ざめた寒い色が漂っている。薄い眉の下に、小さく寂しげに閉じた瞼の形、唇を微に開き、だんだんゆっくり深く呼吸し始めた友の胸の辺を、お幾は息を潜めて見守った。
「お医者様を呼ばないでもいいかしら……」
独言のような彼女の呟きに、お恵さんは、間を置いて、静かな声で返事をした。
「もう大分楽になりましたわ、ありがとう……ようござんすよ」
「大丈夫ですか?――どうしたんでしょうね」
傍から、淑子や女中が、近頃、彼女は、よく遠道をした後に、胸が苦しいと云っては暫く横になることがあると説明した。
時には、指の先まで冷や冷やになり、気でも遠くなるのではあるまいかと思うことさえある、と云う。
女主人と、まだ幼い娘きりの家に仕え、万一、何事かあると、第一責任は、自分が負わなければならないような位置にいる女中は、よい機会に、出来るだけ、お幾
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