自分の膝から払いのけた。
「お幾さん、私はこれでも及ばずながら人の妻としてすべきことだけは尽した積りでございます。たといあなたが、どんな積りでおっしゃっても、私は決して神の怒りに触れるようなことをした覚えは夢にもございません、爪の垢ほどもございません」
強て落付きを保とうとするお恵さんの声は、自ずとこみ上げて来る歔欷《すすりなき》に怪しく掻き乱された。
「あなたに――あなたまでがそんなことをおっしゃるかと思うと……」
肩を震わせて二つの袂の中に泣き崩れたお恵さんは、やがて頭を擡げると、良人の遺骸の枕許にぴったりと寄添って、切れそうに唇を噛みしめながら、静かに新しい線香に火を移した。
「ほんとにまあ何ということを云ってのけたものだろう」
あの恥と憤りとに火のように燃えて自分を見た二の眼を思い出しただけで、お幾は今だに体の竦む思いがした。
たとい、云い廻しの不十分から起った誤解だとは云いながら、場合が場合だけに、お幾は自分をよしとする如何なる口実も見出せなかった。
馬鹿な自分、間抜けな自分、彼女は自分の手に喰いつきたいほど、その失言を悔い悩んだ。
若し自分がお恵さんだったらどうだったろう。きっと相手の顔をぴっしゃり打ちかねず怒ったに違いない。
それから後殆ど日参するようにして、ようよう心の解けた今は、もう一つの淋しい笑話となってはいても、何かの折にお恵さんの顔を見ると、そのことを思い出さずにはいられない。それを思い出すと、流石の彼女も再び神の怒と恩寵とを説くほど厚顔にはなれない。お恵さんが行違いを二人の間だけのこととして、誰にも洩さず、自分の不注意をかばっていてくれることは、お幾にとって、譬《たと》えるもののない恩恵であったのである。
こういういきさつを経て、二人の友情はまた元通り濃《こまや》かなものになった。が一方お幾の信仰談は、傍から想像もつかない位しおらしい遠慮で憚られているうちに、お恵さんには更に第二の不幸が襲って来た。
せっかく十まで育て上げた唯一人の男の子が、急性肺炎でたった三日入院したばかりであえなく死んでしまったのである。
その時、お幾の尽した親切というものは、恐らく親身の姉もそれには及ぶまいと思われるほどのものであった。
実の兄はありながら、寡婦になったお恵さんを厄介者扱いにして、悲しみの最中に、一遍の形式的な悔みを述べに来たき
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