の材木や庭石の馴染まないあらつちに照りかえした。石川からその朝になって事情をきかされた職人達は、
「へえ、そいつはことだ」
と驚いた。
「あんな旦那がおふくろを追廻すなんて話みてえだな。大学もたそくにならねえもんと見えるね」
「どうせ棟は上げられねえが、側をちょいちょいいじくって置くんだな」
九時頃自動車の爆音が裏の松林に聞えた。
「何だい」
「病院の自動車だ」
昼少し前になって原宿と伴立って幸雄が来た。
「御苦労だね」
「いいお天気で何よりでした」
「これからかい」
応待など石川の眼にはどこも異常が認められなかった。そうかと思って見ると、僅に眼が血走っているのと、幾分せかついているくらいが目立つだけであった。却って手塚の方が亢奮をかくせない様子で、
「――仕度はいいんだろうね。主人公が来たがらないんで困ったよ」
と云った。
「ここはあなたが御主人だからおいで下さらなくちゃあ立前になりません」
石川は、さり気なく、跋《ばつ》を合わせた。
「奥様はどうなさいました」
幸雄は、ステッキを腰にかって、働いている職人を見守りながら、
「今に来るだろう」
とぼんやり答えた。
「おーい、かかるぜ」
主屋の桁に職人が攀登《よじのぼ》った。威勢の好い懸声で仕事が始った。手塚はいつになく頻りに幸雄に話しかけた。
「あそこの樫がどいたら偉く見晴しがよくなったな、何だろうあれは……箇人の住宅にしちゃ広すぎるな」
幸雄は、遠く見晴す丘の裾に青い屋根の洋館がポツリと建っている方に目をやったが何とも返事しなかった。
「立ってちゃくたびれちゃうね、やっこらと」
手塚は運び込んだなりの庭石の一つに腰を下した。やがて幸雄も来て傍にかけた。いつの間にか背後の生垣の処に植木屋に混って詰襟を着た頑丈な男が蹲《しゃが》んで朝日をふかし始めた。石の門柱を立てる、土台の凝固土《コンクリート》に菰《こも》がかぶせてある。そこから、ぶらりと背広を着た四十がらみの男が入って来た。
「やあ」
手塚は立ち上りそうにしたのを再び思いなおして、かけたまま、
「これはこれは」
と帽子に手をかけた。背広の男は、
「通りがかりにひょっと見るとどうもあなたらしかったんでね」
と云った。
「なかなか立派に出来ますね」
「いや、主人公はこちらです。――浜さんといってお親しく願っている方です、飯田、幸雄」
幸雄は、薄色の中折れを片手で頭からむくように脱いで形式的に礼を返した。
「やあ、どうぞよろしく。――これで建坪はどの位ありましょうかね」
幸雄は面倒そうに、
「引くるめて三十五坪くらいなもんです」
と答えた。
「ふーむ。――ここからだと電車の停留場はどの見当になるでしょう」
幸雄は黙っていた。すると手塚が思い出したように、
「あなた、今日は何です、電車ですか」
と訊いた。
「いや、自動車でやって来ましたが……何です?」
手塚は片手の指で半白の髭が延びた顎を撫でていたが、あちらを向いて鳶《とび》の働くのを眺めている幸雄の肩を軽く叩いた。
「君、この方が自動車で来られたんだそうだが、丁度いい工合だ、帰途乗せていただいて病院へ廻って行こうじゃないか」
自信のない不自然な微笑を浮べている手塚を幸雄はきっと頭を廻して睨んだが、見るうちに相恰《そうごう》が変った。唇まで土気色をし、
「いやだ!」
ときっぱり拒んだ。
「一寸廻る分にはいいだろう、次手《ついで》だもの」
「いやだと云ったらいやだ」
それは昼間の普請場に響き渡る大声であった。幸雄が立つ。続いて手塚も突立った。相手を睨み据えながら、幸雄は手探りで素早くステッキを取ろうとした。ステッキはもうそこにはなかった。
「畜生!」
いかにも口惜しげで、石川の心に同情が湧いた。幸雄の二の腕を背広の男が捉えた。
「何する!」
「おとなしく君が病院へさえ来れば何でもないんだ」
「騙したな? よくも此奴! 退《ど》け! 退きゃがれったら!」
幸雄が藻掻《もが》けば藻掻くほど、腕を捉えている手に力が入ると見え、彼は顔を顰《しか》め全身の力で振りもぎろうとしつつ手塚と医員とを蹴り始めた。朝日を捨てて、詰襟の男が近よった。
「おい、若いの、頼む、押えつけてくんな」
そのときは桁の上に登っていた男まで降りて来て囲りにたかり見ていた。
「どうだいこれは。――よりつけやしない――二三分でいいんだ、これを巻くまで手をかしてくれ」
麗らかな日光にキラキラ光る白木綿を見ると、幸雄は一層猛り立った。
「どけ! 放せ! 放せ!」
三人の男が扱いかねた。一人が腰を捉まえた拍子に、ビリビリ音がして単衣羽織が綻《ほころ》びた。必死で片腕にぶら下っている手塚が殺気立って息を切らしながら、
「拘わん、拘わん」
と頭を振った。
「遠慮している場合じゃない、おい! 石川!」
石川は、後から幸雄の肩を確《しっか》り押え、
「若旦那! 若旦那! 気を落付けなくちゃいけません」
と云った。
「静かにしなすったって分る話だ。――若旦那!」
熟練し切った様子で荷でもくくるように詰襟の男が幸雄の踝《くるぶし》の上から両脚をぎりぎり白木綿で巻きつけ始めた。足許が棒のようになったので足掻きがつかずもろに倒れそうになっては、立ちなおって荒れる。容赦なく腹を締めつけ、遂に両腕も緊《きつ》く白木綿の下に巻き込まれてしまった。幸雄は、今はハッ、ハッと息を吐きながら、鳥肌立って蒼い頬の上にぽろぽろ涙を流し始めた。男共は葬列でも送るように鎮まりかえった。愈々《いよいよ》担ぎ上げられて、数歩進んだ。突然子供がしゃくり上げて泣くような高い歔欷《すすりなき》の声が四辺の静寂を破った。
「石川! イシカワ!」
いい加減心を乱されていた石川はあたふた病人の頭の方に駈けよった。
「助けとくれ、ドーカ[#「ドーカ」に傍点]助けとくれ! 石川」
仰向いたまま食いつくように石川を見る病人の真実溢れた両眼から限りなく涙が流れ落ちた。
新しい家に移って来て、奥さんは三年の間一人で暮した。女中と爺やがいるだけであった。
「――散歩の出来るような庭にしないじゃなるまいねえ。この間もお医者さんが、なるたけ家でも病院にいるときのように規則立てて暮させなけりゃいけないっていってでしたよ」
始めの目論見と違って、平庭のまま芝生が出来たり、南を向いてフレームが出来たりした。静かに絶間なく幸雄を待っている母親の心が石川に伝わるようであった。
病人は足掛四年目になって戻って来た。
住宅地には生垣が多い。山茶花を垣にしたところもある。栗の葉が濃く色づいて広い初冬の青空の下に益々乾いて行く。低いところで白や紅の山茶花が咲き散る。落葉焚の煙が見とおしの利く桜並木の通りにも上った。緩やかな勾配を石川は住宅地の奥の方へ歩いていた。土蔵を請負った仕事場に行くところなのであったが、ずっと後の方で、
「おーい」
と呼ぶ女の声がした。落葉を鳴らして行くとまた、
「おーい」
と聞える。歩いているのは石川ぎりであった。右手は手入れよく刈込まれた要の生垣で、縁側の真赤な小布団に日が当っているのが見える。怪訝《けげん》に思いつつ振返って見ると、派手な帯のところだけ遠目に立たせ若い女が小走りにこちらに向って来る。石川が止ると、手を挙げてひどくおいでおいでをし、力を盛返して駈け出した。変に縋《すが》りつくようなところがある。双方から近よると、石川は、
「何だね、お君どんじゃないか」
と云った。飯田の小間使いであった。
「何か用かい」
君は息が切れて口が利けない。口が利けないまま、石川の着ている羅紗のもじりの袖を掴んでぎゅうぎゅう来た方に引張った。
「来て下さい、直ぐ。よ! よ!」
ふと石川は火でも粗忽したのかと思い、
「火か?」
と訊いた。お君は、ふっくりした束髪の前髪がちぎれそうに首を横に振った。
「――奥さまが大変なの」
いきなり、お君の眼から大きな涙がころがり落ちた。
「早く来て下さいよ、奥様が本当に大変なのよ」
大股に戻りながら、石川は頻りに訊くが、十七のお君は動顛して泣きながら、
「大変なのよ、変になっておしまいなすったらしいのよ」
と云うだけだ。娘らしい頬に透き徹った涙が輝やいてふりかかる様が可憐であった。
「しようがねえじゃないか、確りしなけりゃ」
「こっち、こっち」
大きな八つ手が植込みになった横から石川は台所に廻った。硝子戸が開いて、外套を着た男が佇んでいる。男は石川を見ると、ひょいと頭を下げて傍へどいた。
「あら! 帰らないで下さいよあなた! あなた」
という奥さんの声に石川は、
「やあ」
と入口に立ったが、べったり流し前の簀子《すのこ》に座布団もなしで坐り込んでいる彼女の風体とその辺に引散らかしてある物品を一目見ると、君が泣き出したのも無理なく思えた。石川は上り框に蹲み、
「どうなさいました、え? 奥さん」
と声を励ました。石川の胸に、三年前幸雄が力ずくで病院に連れて行かれたのを見たときと同じ、酸っぱいような鼻の髄が痛いような感情が甦った。奥さんは手元にあるだけの株券、公債、銀行通帳、宝石の入った装身具類などを悉《ことごと》く簀子の処へ持ち出し、
「これだけ財産があるんですから、本当に、御迷惑はかけませんよ、――だからどうぞ今日から親類になって下さい、……ね、私達そりゃあ淋しく暮しているんですよ、二人ッきりでね、幸坊と私と二人ッきりでね」
と心をこめて訴えているのであった。傍で、年嵩の女中が気が気で無さそうにそれ等の物を他人の目からかばおうとしている。石川を見ると、奥さんはのり出し、一層優しく、いかにも侘しい境遇にいかにも堪えきれぬらしく云った。
「ね石川さん、そうですわね、あなただって親類になってくれるでしょう? 二人っきりでねえ、私と幸坊とねえ、財産はあるんですものねえ……」
そのように親類になってくれと懇願されている者は、電燈会社の集金人であった。石川は台所へ上って、
「奥さん、あの人には私から親類になるようによく話しますからね、一先ずこんな物はしまって置きましょう」
と云った。
「親類になるまでに無くなるといけませんからね」
彼女は子供のように石川の後に跟《つ》いて台所と部屋との間を往復した。
「じゃその指環は、右の引出しに入れて下さい。――でもねえ石川さん、あの人本当に明日来てくれるでしょうね、親類になってくれなかったら、私どうしたらいいだろうねえ」
「大丈夫ですよ奥さん。――さあよく見ていて下さい。おい、お君どんも来て。――この株券と帳面はここですよ、この黒い袱紗《ふくさ》の中です、わかりますか」
奥さんは縞お召の羽織の袖を左右から胸の前で掻き合わせ、立ったまま合点合点をしていたが、急に、
「あら大変だ、ね、石川さん、あのダイヤの帯留ね、どこへ行っちゃったかしら」
膝を突くなり、がむしゃらに小箪笥の引出しを引くるかえした。
「ああ私あれをなくしちゃ大変なんですよ、あれがないと私――どうしたろう。ここにしまいやしなかったかしら」
彼女は俄に心配し始めた。石川は、
「これですよ、ここに在りますよ、奥さん」
と手に押しつけて持たした。
「まあ、有難う。――ねえ石川さん、あなた本当に今日から親類になって、いろいろ相談にも乗って下さいね。――瀧ややお君はもうなってくれたの。……ねえ」
原宿の計らいで看護婦が雇われて来た。奥さんは長火鉢の前に坐って、
「まあどうしてこんなにお人形が入っているんだろう」
と、眼の力が人間以上になったように灰の中にあるどんな小さい燼《もえさし》の破片でも見付け出した。
「ほら、またここに――お人形さんですよ、お人形さん」
手当り次第傍の湯呑の中に入れる。
「おや、あの壁にもついている――そう云えば……君や、一寸おいで」
大柄な、手など薄赤くさっぱりした看護婦が、
「何か御用ですか、私が致しましょう」
と云った。
「いいえね、さっき手水《ちょうず》に行ったとき、あすこに大きなお人形さんがいたのを思い出してね、君や、おいでよ」
奥さんは幾時間でも
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