牡丹
宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)纏《まとま》った

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)とんでもないことを仕|出来《でか》した

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ドーカ[#「ドーカ」に傍点]助けとくれ!
−−

 人間の哀れさが、漠然とした感慨となって石川の胸に浮ぶようになった。
 石川は元来若い時分は乱暴な生活をした男であった。南洋の無人島で密猟をしていたこともある。××町に住むようになって、いろいろな暮しを見ききする間に、偶然なことから或る家族、といっても極く特別な事情の一家と知り合った。
 ××町というのは、東京の西北端から、更に一里半ばかり田舎に引込んだ住宅地の一つであった。××町の入口を貫いて、或る郊外電車が古くから通じていた。終点が何で、夏は有名な遊園地であった。或る信託会社と、専門家の間ではネゲティブな意味で名を知られているその電気会社とが共同で計画して開いた住宅地が××町であった。自然の起伏を利用した規則正しい区画、東と西の大通りを縁どる並木、自動車路など、比較的落付いた趣があったので、知名な俳優や物持ちが別宅などを建てた。石川は、そのようにしてだんだん××町が開けて行く草分から町の入口――よく小さい別荘地の入口に見るように、半町ばかりの間にかたまって八百屋、荒物屋、食糧品屋から下駄屋まで軒を並べた場所に住んだ。往来の右手の小高いところに木造のコロニアル風の洋館があって、それが永いこと貸家になっている。その辺からもう町の大通りである桜並木が始っていた。天気の好い冬の日など霞んだように遠方まで左右から枝をさし交している並木の下に、赤い小旗などごちゃごちゃ賑やかな店つき、さてはその表の硝子戸に貸家札を貼られた洋館などを見渡すと、どうやら都離れて気が軽やかになり、本当の別荘地へでも来たような気がしないこともない。
 石川は、無人島でアメリカへ売り込む鳥の羽毛を叩き落すのをやめてから、或る請負師の下に使われるようになった。その親方は手広く商売をし、信託会社にも関係があった。今××町の中にある凝った建築の邸宅で、その請負師の仕事が大分ある。あらかた建つだけの家が建ち、信託会社も請負師も住宅地から手を引いた。後に石川だけ遺った。先の親方時代からの縁故で、大工、植木などの職人は勿論、井戸替、溝掃除、細々した人夫の需要も石川一手に注文が集った。纏《まとま》った建築が年に幾つかある合間を、暇すぎることもなく十五年近く住みついているのであった。
 五年前、桜が咲きかける時分石川は予期しない建築を一つ請負うことになった。十五日の休みで、彼は家にいた。裏のポンプのところで、下駄屋の犬とふざけていた。すると、女房が遽《あわただ》しく水口から覗いて、
「ちょいと! お前さん」
と変に熱心なおいでおいでをした。石川は、なお尻尾を振って彼の囲りを跳び廻る犬を、
「こらこら、さあもう行った、行った」
とあしらいながら、何気なく表の土間に入った。上《あが》り端《はな》の座布団に男女連れがかけていた。入って行った石川の方に振り向いた女の容貌や服装が、きわだって垢ぬけて贅沢《ぜいたく》に見えた。
「いらっしゃいまし」
 せきが土間に立ったまま、
「事務所からきいておいでなすったんですってさ」
と云った。イムバネスを着た年配の紳士は、
「いそがしいところをお邪魔だろうが、一寸相談して見たいことがあったのでね」
と云った。石川は始めその男女を、世話されている者、している者という風な関係に思った。××町の家の女主でそういうのがよくあるのであった。ところが話しているうちに、女の方が今度新たな家を建てようとする人で、男はただ後見役の位置にいることが分った。四十がらみのその女は、
「ずっと下町にいるから当分淋しくって困るかも知れないと思いますけれど、私も伜《せがれ》も体が丈夫な方じゃないから、一つ思い切って閑静なとこへ引込んで呑気に暮そうと思いましてね」
などと、静かなうちに歯切れよく話した。
「若しお願いするとなりゃこの方に万事御相談願うことになるんですよ。私なんぞ絵図を見せてお貰いしたって、目の前に出来上ってからでなけりゃ、どっち向いて入る訳なんだか見当がつかない有様なんですもの」
 何となし鷹揚な女であった。石川は間数や、大体の好みなどを訊いて帳面につけてから、連立って土地を見に行った。大通りをずっと奥まってから右に入った空地であった。石川は思わず、
「ああ、こっちですか」
と、雑草を掻き分けて踏み込みながら云った。
「ここはいい地面です。あの通り北がずっと松林で囲まれて、こう南が開いていますから。――五百坪ですか」
「そうでしたっけね。……去年来たときから見るとその辺の樹も太くなったようですね」
「同じ信託地の内でも、あっち側は低いし、時代のついた木なんぞ一本もありませんから、さて建てるとなると、庭が大変です」
 女は都会人らしく気味悪そうに空地の入り口に袂を掻き合わせて佇んでいた。裏の松林からときどき松籟《しょうらい》が聞こえた。雑草の蔭に濃い紫菫が咲いていた。
 見積りも面倒なく済んで、地形《ちぎょう》にとりかかった。石川の経験ではすらりと進み過ぎたくらいの仕事であった。実を云えば、見積書をもって行って手金を受取るまで、石川は大して当にしていなかった。それほど話しの切り出された抑々《そもそも》から何だか皆の心持が単純であった。――永年の宿望を遂げて、貯蓄した金でさて一軒建てようという人々のように、騙《だま》されやしまいかと心配したり一円でも廉くていいものを使いたいとか、こせついて癪に触るようなさもしいところが、飯田の奥さんにはちっともなかった。――が、後見の手塚準之助が、あのひと、あのひとと呼ぶ彼女は、世間で云うままの内容において奥さんなのであろうか? 息子を持った中年の女を他に呼びようないので便宜上の呼び名であるのだろうか。せきは、一言の下に、
「玄人さお前さん、一目見たってわかるじゃないか」
と断定した。石川は、南洋の無人島で終日遙かな水平線ばかりを見詰めていたときから、上瞼が少し重たく眼尻のところで垂れ下っている船乗りらしい眼付になった。その幅広な視線で、元気な石女《うまずめ》の丸まっちい女房を見下しながら、
「それは分っているさ……だがね」
「だがね、どうなのさ……」
「……ふむ!」
「いやだよこの人ったら……」
 女房は、やがて、
「でもいい装《なり》をしてなすったねえ」
と云った。
「何でもなさそうにあんな指環はめていられる身分になりたいねえ」

 工事が進むにつれ、原宿に住んでいる手塚が二日置きくらいに見廻りに来た。一緒に幸雄という息子も来るようになった。二十三四の母親似の若旦那であった。角帽をかぶっていた。
「若旦那――大学ですか」
「ああ」
「本郷ですか」
「うん」
「御卒業はいつです」
「出してくれりゃあ来年さ」
 面長で顔の色など、青年にしては白すぎた。いかにも母親の注意が細かに行き届いた好い服装をし、口数の尠い男だが、普請は面白いと見え、土曜日の午後からふらりと来て夕方までいて行くことなどあった。母親もそうだが、この大学生にもどこか内気に人懐こいようなところがあった。草を拉《ひし》いで積み重ねた材木に腰かけ、職人達に蕎麥《そば》を振舞い、自分も食べた。
「まずい蕎麥だなあ」
「そりゃ市内からいらしっちゃ蕎麥や鮨は駄目です」
「こんなのっきゃないのかい」
「何にしろ一軒ぎりですからね」
「ふうむ――いい店出したって立ち行かないんだろうね」
「顧客の数がきまってますからね――若旦那、御卒業なすったらこちらからお勤めですか」
 幸雄は、植える松の根を、職人が多勢かかって締めているのを見ながら、
「勤めなんかいやだねえ」
と答えた。
「何です? 法律ですか御専門は」
「経済だよ」
「――実業家ですね」
「…………」
 幸雄は、母親のことを石川に話すに、決してお母さんとか、それくらいの年頃の若者らしくおふくろなどと云わなかった。新橋、新橋と云った。
「新橋も今年の夏はこっちで暮らしたいらしいよ、間に合うだろうかね」
 現在新橋に住んでいるのでそう呼ぶのかと石川は思った。すると或るとき、原宿の手塚が、
「あの人も、元は新橋で鳴らしたものさ――太郎って云ってね」
と云った。幸雄は或る身分の高い人との間に生れた一人息子で、相手の死後あり余る手当で生活しているのであった。
「この家だって、幸雄がいずれ一家を構える場合を考えて建てる気になった訳さ。小さいとき引き離されていたりしたから幸雄の方じゃ大した気持もあるまいが、生んだものにして見れば親一人子一人の境涯だからね」
 なるほどそういう心持であったかと、石川は二間続の離室に好意を感じながら図面を見なおした。
 三日経つと立前《たてまえ》という晩であった。
 夕飯をしまって一服していると、
「今晩は」
と若い女の声がした。
「どなた」
 女房が、流しの前から応えた。
「石川さんはいらっしゃいましょうか」
「ええおりますが――どちらさんです」
 手を拭き拭き出て見ると、それは女中を連れた飯田の奥さんであった。
「おやまあ失礼いたしました、さあどうぞ」
 その声に石川も顔を出した。
「や、大変おそくお出かけでしたな、どちらからかお帰りですか」
 飯田の奥さんは大儀そうな風で、黒いレースの肩掛けを脱した。
「この間じゅうはだんだんどうもお世話様でした。私もちょくちょく来たいとは思っても何しろ遠いもんですからね」
 茶など勧めたが、飯田の奥さんの顔色がただでなく石川に見えた。
「――いよいよ十八日立前になりますが――いい天気にしたいもんです。……奥さんもどうかおいで下さい、やっぱりああいうときは、御本人がいて下さると下さらないでは張合が違いますからね」
「――実はそのことで急に上った訳なんですがね――十八日に間違いなく立前出来ましょうか」
 石川は、どういう意味か分らず、濃やかに蒼白い奥さんの横顔に眼を注いだ。
「こっちの仕度はゆっくりですが……何か御都合の悪いことでも起りましたか」
「本当にこんなことになろうとは夢にも思っていなかったのにねえ」
 奥さんは、黒い竪絞《たてしぼ》の単衣羽織の肩も俄にこけたような顔付をして、
「肝心の幸雄の工合がわるくなりましてね」
と云った。
「道理でこの頃お見えなさいませんでした。どうしなさいました?」
「どうした故か頭の工合が悪いらしいんです。……恥をお話ししなければ分らないけれど、急に暴れ出しましてね、刃物三昧しかねない有様なんですから、……本当に……」
 石川は、幸雄の寧ろ女らしいくらいの挙動を知っているので却って信じ難いようであった。
「前からそんな癖がおありだったんですか?」
「いいえ、それどころか、内気な代り私みたいな者の子と思えないほど学校だって出来ていたんですよ」
 さし組んで来る涙を銀鼠の絞縮緬の袖で押えながら、奥さんは、
「大学を来年出るという間際にこんなことになるんですからねえ」
と淋しく頬笑んだ。石川は、挨拶のしようなく感じた。奥さんが極く若いときの子と見え、幸雄がぞろりとした和服でなどいると、母子には見えないようであった。それ故母親が猶気の毒らしかった。医者がとても家には危くて置けないから病院へ入れろと云うが、普通に云って聞くことでないから、立前を口実にこちらへ寄来す手筈をしてこちらから無理やりにでも病院へ連れ込むというのであった。
「飛んだことになって、まことに御迷惑でしょうが、職人衆には何とでもしますから、どうぞよろしくお願い申します。――そりゃ勘が早いんですから、くれぐれも知らん顔でね――ただどうぞ刃物だけは届かないとこへ始末させといて下さい。万一とんでもないことを仕|出来《でか》したりすると申訳ありませんからね……」
 十八日は、空の色が目にしみる快晴であった。五月で、躑躅《つつじ》が咲いていた。濃い紅の花が真新しい色
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング