。大事な貴いところへ忍び込むようにそーっともう一足入って、彼は顔を極度の用心深さで花に近づけた。九分通り咲きこぼれた大輪の牡丹は、五月の午前十一時過ぎの太陽に暖められ頭痛がするほど強い芳香を四辺に放っている。幸雄は蘂に顔を押し埋めつつその香を吸い込んだ。
ほほけ立った幸雄の黒い後頭部を見ていた石川は、うっかりしていたが不意に不安に襲われた。石川は腐った桜餅を縁側に置いて立ち上った。
「……どうなさいました?――」
幸雄はそろそろ顔を挙げてこちらを向いた。それを見て石川は心に衝撃を感じた。一層蒼ざめた幸雄の面長な顔は牡丹の大きい照りかえしで白い焔のようであった。その白い焔を貫いて何と神々しい異常な大歓喜が揺れていることだろう。病人の心の奥の暗いところで、ああ今牡丹がこの世のものでない美しさをもって咲き拡がっている。――そう思わせる顔だ。石川はこわいような心持に打たれた。狂った人間の心が彼の心をきつく圧した。
底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第三
前へ
次へ
全28ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング