に向って来る。石川が止ると、手を挙げてひどくおいでおいでをし、力を盛返して駈け出した。変に縋《すが》りつくようなところがある。双方から近よると、石川は、
「何だね、お君どんじゃないか」
と云った。飯田の小間使いであった。
「何か用かい」
 君は息が切れて口が利けない。口が利けないまま、石川の着ている羅紗のもじりの袖を掴んでぎゅうぎゅう来た方に引張った。
「来て下さい、直ぐ。よ! よ!」
 ふと石川は火でも粗忽したのかと思い、
「火か?」
と訊いた。お君は、ふっくりした束髪の前髪がちぎれそうに首を横に振った。
「――奥さまが大変なの」
 いきなり、お君の眼から大きな涙がころがり落ちた。
「早く来て下さいよ、奥様が本当に大変なのよ」
 大股に戻りながら、石川は頻りに訊くが、十七のお君は動顛して泣きながら、
「大変なのよ、変になっておしまいなすったらしいのよ」
と云うだけだ。娘らしい頬に透き徹った涙が輝やいてふりかかる様が可憐であった。
「しようがねえじゃないか、確りしなけりゃ」
「こっち、こっち」
 大きな八つ手が植込みになった横から石川は台所に廻った。硝子戸が開いて、外套を着た男が佇んで
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