壁だの湯殿のタイルだのをほじくって余念なかった。そこにはきっと蠅の糞の跡とか塵とか針の先ほどのものがついてい、人形に見えるのであった。引ずった粋なお召の裾や袂を水でびしゃびしゃにし、寒さでがたがた震えながら縁側じゅうに洗面所の水を溢らして掃除をする気のこともある。偶々《たまたま》奥さんが正気に近くなっているとき来合わせると、石川は一種異様な心持になった。世の中にはこのような廻り合せの親子さえあるものだろうか。三十近い幸雄を奥さんは幸坊幸坊と呼んだ。
「ねえ幸坊や、お前さんどうぞ早く体をよくしてまた学校へ行っておくれ、俥《くるま》でも自動車でも何でもお前の好きなものに乗せてあげるからね、そして、どうか一度母さんの前へ、十円でも十五円でもいいから、これは私が勤めてとりましたというお金を見せておくれ。……ね、幸坊や、たのみですよ」
さめざめと母の涙が窶《やつ》れた頬を濡らすのであった。
「きいてたの? 幸坊――」
幸雄は聞いている。一間隔てた六畳に幸雄の真鍮燦く寝台があった。その上にゆったりと仰臥《ぎょうが》したまま、永久正気に戻ることない幸雄が襖越しに、
「いいよ、心配しないでも行くよ。――いいから、福ちゃんも新橋へおかえりよ」
と返事するのであった。福ちゃんと呼ぶのがいかにも母親の果敢ない一生を云い当てているようであった。その返事を聞くと奥さんは猶嘆いた。
「どうしてそういつまでも本当でないだろうねえ――幸坊。ちゃんと散歩をおしなさいよ」
「ああ」
「ねえ石川さん、切ないんですよ私ああいうのをきいていると、ねえ石川さん」
泣いて泣いて、また変になってしまうのであった。
不幸な親子のうちへ訪ねて来るのは原宿だけであった。それも義務上一年に数えるほど顔を出すに過ぎない。奥さんは、寒中余り水に濡れては震えていたので肺炎を起して没した。幸雄はまったく孤独な者となったのを心のどこかで感じたらしく見えた。箪笥の中から茶箪笥の中まで異常な注意深さで管理した。台所まで口を出すので、石川は或るとき、
「台所のことは女の領分ですから、婆やにお委せなさいまし」
と云い含めた。
「あなたは旦那様ですから、ちゃんと奥にいらして、食べたいものをお云いつけなさい。そうすれば何でも出来ますから」
「――そうかい、できるかい」
「きっと出来ます」
石川は、何の魅力でか誰の云うこともきかない
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