の中折れを片手で頭からむくように脱いで形式的に礼を返した。
「やあ、どうぞよろしく。――これで建坪はどの位ありましょうかね」
 幸雄は面倒そうに、
「引くるめて三十五坪くらいなもんです」
と答えた。
「ふーむ。――ここからだと電車の停留場はどの見当になるでしょう」
 幸雄は黙っていた。すると手塚が思い出したように、
「あなた、今日は何です、電車ですか」
と訊いた。
「いや、自動車でやって来ましたが……何です?」
 手塚は片手の指で半白の髭が延びた顎を撫でていたが、あちらを向いて鳶《とび》の働くのを眺めている幸雄の肩を軽く叩いた。
「君、この方が自動車で来られたんだそうだが、丁度いい工合だ、帰途乗せていただいて病院へ廻って行こうじゃないか」
 自信のない不自然な微笑を浮べている手塚を幸雄はきっと頭を廻して睨んだが、見るうちに相恰《そうごう》が変った。唇まで土気色をし、
「いやだ!」
ときっぱり拒んだ。
「一寸廻る分にはいいだろう、次手《ついで》だもの」
「いやだと云ったらいやだ」
 それは昼間の普請場に響き渡る大声であった。幸雄が立つ。続いて手塚も突立った。相手を睨み据えながら、幸雄は手探りで素早くステッキを取ろうとした。ステッキはもうそこにはなかった。
「畜生!」
 いかにも口惜しげで、石川の心に同情が湧いた。幸雄の二の腕を背広の男が捉えた。
「何する!」
「おとなしく君が病院へさえ来れば何でもないんだ」
「騙したな? よくも此奴! 退《ど》け! 退きゃがれったら!」
 幸雄が藻掻《もが》けば藻掻くほど、腕を捉えている手に力が入ると見え、彼は顔を顰《しか》め全身の力で振りもぎろうとしつつ手塚と医員とを蹴り始めた。朝日を捨てて、詰襟の男が近よった。
「おい、若いの、頼む、押えつけてくんな」
 そのときは桁の上に登っていた男まで降りて来て囲りにたかり見ていた。
「どうだいこれは。――よりつけやしない――二三分でいいんだ、これを巻くまで手をかしてくれ」
 麗らかな日光にキラキラ光る白木綿を見ると、幸雄は一層猛り立った。
「どけ! 放せ! 放せ!」
 三人の男が扱いかねた。一人が腰を捉まえた拍子に、ビリビリ音がして単衣羽織が綻《ほころ》びた。必死で片腕にぶら下っている手塚が殺気立って息を切らしながら、
「拘わん、拘わん」
と頭を振った。
「遠慮している場合じゃない、おい! 
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