という思いがけないことを聞いたものだろう」
 市ケ谷の、淋しい夜道でのぶ子と別れてから、おくめの心は、驚とも、感動とも名状し難い動揺で一杯になっていた。
 自分が非難される位置にあった故か、のぶ子は、姉の前では、気になるほど、無口であった。
 おくめが何か云っても、「ええ」とか、「そうですか」というような短い言葉で受け答えするばかりである。
 けれども母親の口添えで、ともかく必要なだけの金は出して貰うことと定《きま》り、おくめが、
「それではもうそろそろ帰ろうかね」
と云って立上ると、のぶ子は、
「じゃあそこまで送って行ってあげますわ」
と云いながら自分も一緒に停留場までついて来た。
 勤人風の家並の多い、宵の静かな往来を歩きながら、二人は、ぽつぽつと種々の話をした。四辺がひっそりしているせいか、先ず用向は済んだという寛《くつ》ろぎからか、母娘《おやこ》は、始めて、のうのうした気持になった。そして、一層親密に、姉の家庭の噂などしているうちに、のぶ子は突然、
「あのね、おっかさん、大阪の方から何か便りが来て?」
と訊ねた。
「大阪?」
 おくめは、意外な面持をして、娘の顔を見ようとした。が、道は丁度大きな屋敷の樹下闇《このしたやみ》で、それと思われる輪廓が、仄白く浮立って見えるばかりである。
 母親が何とも云い出さないうちに、のぶ子は、
「今、こっちなのよ」
と云い足した。
「先月から東京にいるんですって……」
 このことを話すのに、のぶ子は一切相手の姓名を云わなかった。まして、「阿父《おとっ》さん」などという言葉はかりそめにも口に出さなかった。が、おくめには、勿論、すぐに先が誰であるか、推察がついた。昨今、大阪で暮しているということだけは、彼女も、去った良人の唯一の消息として伝聞きながら知っていた。けれども、一旦、縁を切ったからは、恥辱のように思って、彼女は、正確な住所さえ知ろうとはしなかった。便りをしようなどということは、夢にも思わずに、長い間、思い出ばかりを胸に蓄えて来たのである。
「それを、どうしてのぶ子は知っているのだろう」
 流石《さすが》に、おくめは動悸の速まるのを覚えた。
 彼女は暗い足元を拾うように下を見ながら、
「どうしてお前判ったの?」
と訊き返した。
「前にもちょいちょい会ったことがあるんですもの――」
 のぶ子は、優しく弁解するような口調で云
前へ 次へ
全15ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング