家なのだ」と云っているのはそれとして当っているのである。
 だが、私には質問がある。意識的に人生に向っている、そのことはそのままによいとし、さて、その意識の内容をなすものは、どういうものなのであろうか、と。
 これも、強制読書生活の間でのことであるが、私は、第一書房から出ている『藤村文学読本』というのを送られて読んだ。なにか、芭蕉の句を引いて、芭蕉の芸術境に対する自己の傾倒をのべた一文があった。引用されている句の中には「あか/\と日は難面《つれなく》も秋の風」「馬をさへながむる雪の朝哉」そのほか心に刻まれた句があった。藤村氏は、それらに対する味到の心持をのべている。その現実に対する角度は、芭蕉のように身を捨てて天地の間に感覚を研ぎすました芸術家の生涯にある鋭い直角的なものではなく、謂わば芭蕉を味うその境地を自ら味うとでも云うべき、二重性、並行性があり、それは、藤村の文章の独特な持ち味である一種の思い入れを結果しているのである。文章における思い入れと芭蕉の云ったしほり[#「しほり」に傍点]余韻との本質的相異については云うまでもないことである。それらのことを、穢い、寒い板壁に向って感じた時
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