人間的先輩が次代の担いてである若い人間を観るという風に行っていない場合が多く、よきにせよ、あしきにせよ、家長風なものが尾を引いていることに注意をひかれる。日本文化の一つの負担として注意をひかれているのである。
 漱石のように生き、生涯を終った作家の周囲では、先輩の弟子たち、親友たちが、没後何とはなし家長的位置におかれる。伯林の国立銀行の広間の人ごみの間で、私は不図自分にそそがれている視線を感じ、振りかえってその方を見たら、そこにはまがうかたなき漱石の面影をもった一人の若者が佇んでいた。ヴァイオリンが上手だときいた漱石の長男とはこのひとか。どちらかというと背の低い体の上に、四十代の漱石の写真にあるとおりの質量のある、美しさの可能をもった大きめの顔がのって、こちらを、まだ内容のきまっていない眼ざしで眺めているのを見て、私は一ふきの風が胸をふきとおす感じに打たれた。
 先年物故した或る作家の遺族の話が出た折、ある事情に通じたひとが「こんなになる位なら、早く結婚させてやるのだった」云々という意味のことを云い、その、させてやる云々[#「させてやる云々」に傍点]という言葉づかいのうちにある重い、家
前へ 次へ
全11ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング