向ってどうしていいのか、なるようにならせるしか手がない、と云っている。鴎外は反対であったらしい。「晩年の父」の中には、女学校に入る娘を博物館の勤めさきまでつれて行ってやって算術の稽古をしてやっている父鴎外の姿が、溢れるなつかしさをこめて描かれている。従って、子供たちが、有形無形に父から与えられているものは、深く、しっかり根を張っているであろう。女の子の心持にすれば、結婚をするにも父鴎外を自分に近い程度で敬愛するひと、少くとも熱中している自分の感情を傷けるようなものを(客観的にそれが正当な性質のものでも)持たぬひととの結合が、自ら生じがちであろう。
長女茉莉子さんの長子が、やはり西洋風の発音で、漢字名をつけられている。そのように、根はひろく、ふかいのである。
卓抜な芸術家は人間的磁力がきついものである。家庭のまわりのものに影響の及ぼさぬ程の熱気とぼしい存在で、巨大な芸術的天分を発揮し得よう筈はなく、それらの人々の子は誇りをもって父を語ることこそ自然である。だが私は、最も人間性の発展、独自性、時代性、そこに生じるさまざまの軋轢、抗争の価値を理解する筈の芸術家の生活の中でも、親子の関係は人間的先輩が次代の担いてである若い人間を観るという風に行っていない場合が多く、よきにせよ、あしきにせよ、家長風なものが尾を引いていることに注意をひかれる。日本文化の一つの負担として注意をひかれているのである。
漱石のように生き、生涯を終った作家の周囲では、先輩の弟子たち、親友たちが、没後何とはなし家長的位置におかれる。伯林の国立銀行の広間の人ごみの間で、私は不図自分にそそがれている視線を感じ、振りかえってその方を見たら、そこにはまがうかたなき漱石の面影をもった一人の若者が佇んでいた。ヴァイオリンが上手だときいた漱石の長男とはこのひとか。どちらかというと背の低い体の上に、四十代の漱石の写真にあるとおりの質量のある、美しさの可能をもった大きめの顔がのって、こちらを、まだ内容のきまっていない眼ざしで眺めているのを見て、私は一ふきの風が胸をふきとおす感じに打たれた。
先年物故した或る作家の遺族の話が出た折、ある事情に通じたひとが「こんなになる位なら、早く結婚させてやるのだった」云々という意味のことを云い、その、させてやる云々[#「させてやる云々」に傍点]という言葉づかいのうちにある重い、家長権的な表情を、私は一人の女として苦痛と恐怖なしにきくことが出来なかった。
日本の作家の実生活の中での感情は、親子のいきさつに対してもまだ非常に旧いままの内容形式で生きている。丹羽文雄氏が、放蕩はしてもよそへ子供は拵えない、何しろ子供にはかなわないからね、というようなことを、その常套性と旧い態度とに対して揶揄的高笑いをうける気づかいなしに、二十歳前後の若い女の座談会で云っていられる状態なのである。
『文芸』十月号に島崎蓊助が「父上様」という感想を書いている。あの一文を若いジェネレーションは何と読んだであろうか。
「夜明け前」が一つの記念碑的な作品であることに異議ない。七年間の労作に堪ゆる人間が、枯淡であろうとも思わないし、無計画であるとも思わない。同じ十月の『文芸』に中村光夫氏が短い藤村研究「藤村氏の文学」を書いていて、中に「氏は自己の精神の最も大切な部分を他人の眼から隠すことを学んだのであろう」「おそらく氏は我国の自然主義者中最も自己の制作を一箇の技術として自覚し、この明瞭な自覚の上に文学を築いた作家であろう。いわば氏は我国の自然主義作家を通じてもっとも意識的に『自然』に対した作家なのだ」と云っているのはそれとして当っているのである。
だが、私には質問がある。意識的に人生に向っている、そのことはそのままによいとし、さて、その意識の内容をなすものは、どういうものなのであろうか、と。
これも、強制読書生活の間でのことであるが、私は、第一書房から出ている『藤村文学読本』というのを送られて読んだ。なにか、芭蕉の句を引いて、芭蕉の芸術境に対する自己の傾倒をのべた一文があった。引用されている句の中には「あか/\と日は難面《つれなく》も秋の風」「馬をさへながむる雪の朝哉」そのほか心に刻まれた句があった。藤村氏は、それらに対する味到の心持をのべている。その現実に対する角度は、芭蕉のように身を捨てて天地の間に感覚を研ぎすました芸術家の生涯にある鋭い直角的なものではなく、謂わば芭蕉を味うその境地を自ら味うとでも云うべき、二重性、並行性があり、それは、藤村の文章の独特な持ち味である一種の思い入れを結果しているのである。文章における思い入れと芭蕉の云ったしほり[#「しほり」に傍点]余韻との本質的相異については云うまでもないことである。それらのことを、穢い、寒い板壁に向って感じた時
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