鴎外・漱石・藤村など
――「父上様」をめぐって――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)纔《わずか》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)させてやる云々[#「させてやる云々」に傍点]という言葉づかいの

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)「あか/\と日は難面《つれなく》も秋の風」
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 つい先頃、或る友人があることの記念として私に小堀杏奴さんの「晩年の父」とほかにもう一冊の本をくれた。「晩年の父」はその夜のうちに読み終った。晩年の鴎外が馬にのって、白山への通りを行く朝、私は女学生で、彼の顔にふくまれている一種の美をつよく感じながら、愛情と羞らいのまじった心でもって、鴎外の方は馬上にあるからというばかりでなく、自分を低く小さい者に感じながら少し道をよけたものであった。観潮楼から斜かいにその頃は至って狭く急であった団子坂をよこぎって杉林と交番のある通りへ入ったところから、私は毎朝、白山の方へ歩いて行ったのであった。
 最近、本を読んで暮すしか仕方のない生活に置かれていた時、私は偶然「安井夫人」という鴎外の書いた短い伝記を読む機会があった。ペルリが浦賀へ来た時代に大儒息軒先生として知られ、雲井龍雄、藤田東湖などと交友のあった大痘痕に片眼、小男であった安井仲平のところへ、十六歳の時、姉にかわって進んで嫁し、質素ながら耀きのある生涯を終った佐代子という美貌の夫人の記録である。「ともすれば時勢の旋渦中に巻き込まれようとして纔《わずか》に免れ」「辺務を談ぜないということを書いて二階に張り出し」たりした安井息軒の生きかたをそのままに眺めている鴎外の眼も、私に或る感興を与えた。この短い伝記の中に、鴎外にとって好ましい女の或る精神的な魅力の典型の一つを語っているらしいところも面白い。最後に、鴎外は、外見には労苦の連続であった「お佐代さんが奢侈を解せぬ程おろかであったとは誰も信ずることが出来ない。また物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹であったとは誰も信ずることが出来ない。お佐代さんには慥に尋常でない望みがあり」「必ずや未来に何物かを望んでいただろう。そして瞑目するまで美しい目の視線は遠い遠い所に注がれていて、或は自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるま
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