何故彌一右衛門がそうなったかと考えると、それはつまり自分が仕向けたのだと気づかざるを得ない。しかも、そう気づきつつ改められないで、最期の床に横わった忠利に向って、幾度も殉死を願う阿部彌一右衛門の顔を見、声をきくとどうしても「いや、どうぞ光尚に奉公してくれい」という返事しか忠利の喉を出て来ないのである。
 追腹を切って阿部彌一右衛門は死んでしまったが、そうやって死んでも阿部一族への家中《かちゅう》の侮蔑は深まるばかりで、その重圧に鬱屈した当主の権兵衛が先代の一周忌の焼香の席で、髻《もとどり》を我から押し切って、先君の位牌に供え、武士を捨てようとの決心を示した。これが無礼と見られ遂に権兵衛は縛り首にされ、一族は山崎の屋敷で悲惨な最期をとげてしまった。
 武家時代の社会で君臣という動かしがたい社会の枠の中に、このようになまなまと恐ろしい人間性格の相剋が現実すること、そして、その相剋する力がその枠をとりのぞく作用としては在り得ないで、その枠内で揉み合って、枠内のしきたりによって悲劇の終末へまで運ばれてゆくのが、常に正直一途な家臣としての運命でなければならなかった事情を、鴎外はいくつかの插話を興味ふかく配置しつつ立派に描写している。人間一人の生きかた、或は生かせかた。死にかた、或は死なせかたの諸相が、その時代のものとしてこの一篇には実にまざまざと多面的に取上げられている。人間同士の友誼が、対手の死なせかたに表現されなければならなかった当時のモラルも柄本又七郎の行動で表徴されているし、悪意ある方策によってかまえられた名誉の前に、生きるに生きがたい死を敢てする若い竹内数馬の苦痛に満たされた行動は、内藤長十郎が報謝と賠償の唯一の道として全意志を傾けて忠利から殉死の許可を獲て、それで己は家族を安穏な地位に置いて、安んじて死ぬことが出来ると、晴々と昼寝してから腹を切りに菩提所東光院に赴いた心理に対蹠する、複雑な翳《かげ》として忠利の死という一事をめぐっているのである。
 武家気質というものをそれなり歴史のなかのものと承認して、その心理の範疇のなかへ近代人としての鴎外が整理と観察の光りを射こんだ創作態度から云うと、この「阿部一族」は内容、構成、文章等最も傑出した作品である。
 今日の私たちにとって、森鴎外のこういう歴史への態度は、おのずからいろいろのことを考えさせると思う。「興津彌五右衛
前へ 次へ
全13ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング