市内電車」「帽子昇天」などは「詩集と結婚と出産と」「父となる日」「わが家の正月」などとともに、決して、古い意味での世界の主の感情ではないのだから。「わが家の正月」「詩集と結婚と出産と」などには、実にあったかくて、清潔で、狎れ合ってしまわない人間同士の、親と子と、良人と妻とのつどい、生き、たたかううたがあります。その人間らしいうたのひびきは「冬こそ春を支度する」を通じ、「アレグロ・マ・ノン・トロッポ」へ「合唱する人たち」へ通じます。(「合唱する人たち」の第五章四行あたり、何か人間というものの神聖が感じられました。自然で、自然であるがゆえにまじめな。)「アレグロ・マ・ノン・トロッポ」には、心と耳とをかたむけてそれをきき、いつしか自分もその行進にまきこまれて足をすすめ出すような音楽がみちています。この音楽と、いつか展望にのった高村光太郎の「ブランデンブルグ」とを思い比べずにはいられません。何というちがいでしょう。ここにわれらの鳴りひびく打楽器があります。あすこには、雪のきらめく山嶺とそこに孤独であってはじめて確保された唯心的で超歴史的な恍惚があります。「運河」「畳」「家」これらは、これらとし
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