鉛筆の詩人へ
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)[#地付き]〔一九四九年十二月〕
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さきごろは「鉛筆詩抄」を頂きまことにありがとうございました。
この前、鉛筆の詩を拝見したときから、わたしに感銘されていた詩の精神が、ここに集められているすべての詩のなかにこもっています。日本にも、生活そのものの中から、「言葉の魔術」をふりきって、「詩のポーズ」をけとばして、うたわれて来る詩のできたことは、何とうれしいでしょう。
わたしは詩というものが書けないけれども、詩をこのみます。散文では、何かの間にはさまって数行しか書けない人生の感覚を、詩は純粋にそのものとして一つの奥ゆきある現実としてうち出します。これらの詩によってあらわされている人生の感じかたは、わたしが成功しまた成功しない小説の底を貫いて響かせようと欲しているその感じかたです。序文に「世帯じみる」という言葉がつかわれていますけれども、もしその言葉を使うとすればそれは全く新しい内容によって云わなければならないだろうと思います。なぜなら、「薬鑵の詩」「市内電車」「帽子昇天」などは「詩集と結婚と出産と」「父となる日」「わが家の正月」などとともに、決して、古い意味での世界の主の感情ではないのだから。「わが家の正月」「詩集と結婚と出産と」などには、実にあったかくて、清潔で、狎れ合ってしまわない人間同士の、親と子と、良人と妻とのつどい、生き、たたかううたがあります。その人間らしいうたのひびきは「冬こそ春を支度する」を通じ、「アレグロ・マ・ノン・トロッポ」へ「合唱する人たち」へ通じます。(「合唱する人たち」の第五章四行あたり、何か人間というものの神聖が感じられました。自然で、自然であるがゆえにまじめな。)「アレグロ・マ・ノン・トロッポ」には、心と耳とをかたむけてそれをきき、いつしか自分もその行進にまきこまれて足をすすめ出すような音楽がみちています。この音楽と、いつか展望にのった高村光太郎の「ブランデンブルグ」とを思い比べずにはいられません。何というちがいでしょう。ここにわれらの鳴りひびく打楽器があります。あすこには、雪のきらめく山嶺とそこに孤独であってはじめて確保された唯心的で超歴史的な恍惚があります。「運河」「畳」「家」これらは、これらとし
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