るじゃないか。
エッダ (負けず)それは、お前だけが、そうと思っているんじゃあないの? 誰の眼で見ている?「お前の眼[#「お前の眼」に傍点]」じゃないの? 誰の耳で聴いているの?「お前の耳[#「お前の耳」に傍点]」じゃあなくって。お前の眼が私の眼と同じだっていうのは、ただ、お前だけがそう思う、というばかりよ。お前の頭が狂っていないって。
母親 エッダ。云うことをお考え!
エッダ (はっとする。が、強いて勢いよく)ほんとにそうじゃあないの? お前が見て、これに間違いはないと思う世界の様子だって、どこまで真実か解りゃあしないわ。逆に立ったって、お前は、お前の頭[#「お前の頭」に傍点]でほか、見るも考えるも出来やしないんだもの。
ヨハネス ――(不安を面に漲し、凝っとエッダの顔を見る)――エッダ……エッダ――お前は(深い感情を以て)エッダに違いないだろう?
エッダ (笑い)知らなくってよ! お前が自分を猿じゃあないと思い込むと同じに、まるで異ったどこかの婆ちゃんを、エッダだと思っているのかもしれやしないわ。
ヨハネス (混乱した顔になり)ああエッダ。(焦々しく)はっきりしてくれ。ね(エッダの手を執ろうとする)お前はエッダだよ。ね、俺が、死んだ親父の息子のヨハネスの通りに。ね。
エッダ (いよいよ笑い)お猿さん! 人の真似する痩猿さん!
[#ここから4字下げ]
ヨハネス、さっと立ち上る。エッダ面白そうな声をあげ、逃げようとする。ヨハネス突立ったまま、堪えられないように低く呻き、髪を掴み、いきなり顔中を動して、ほんとに獣のような相貌をする。
[#ここで字下げ終わり]
エッダ (中腰になったまま)あら!
[#ここから4字下げ]
ヨハネス、いきなり体中の力を入れて、エッダを捕まえようとする。エッダ怖れ、叫び、飛ぶように、扉《ドア》の方から室外へ逃げる。母親、驚いて椅子から立ち、扉の方とヨハネスとを見、
[#ここで字下げ終わり]
母親 どうしたんだい一体。何をしたの?
[#ここから4字下げ。鍵括弧のついた台詞のみ、3字下げ。]
ヨハネス、黙って突立ち、眼をしばたたき、まるで絶望したように、くしゃくしゃ顔を歪める。 幕。[#「幕。」は地付き]
第二 その夜、ヨハネスの部屋
上手に小さい窓。下手には入口、低い寝台。正面に衣裳箱、上に四角な鏡を立てかけ、燭台、聖書、櫛等置いてある。中央には机、椅子。洋燈《ランプ》の黄色い光りが机の前に坐ったヨハネスの影法師を大きく後の壁に投げている。
ヨハネス、頬杖を突き、考えに沈んでいる。幾ら考えても解らない風。髪の中に指をくぐらせ左手で襯衣《シャツ》の襟元を烈しく寛《ゆる》める、顔には、深い、深い懐疑と苦悶が現れる。唇をきっと緊め、立ち、鏡を洋燈のところへ持って来る。腰をかけ、燈の蕊《しん》をあげ、両手で鏡をつかまえて、睨むようにその面を見る。泣くような呻き声。
「エッダ!」
鏡をすて、部屋中を重く歩き廻る。
どうにかして、この考えを振り棄てたいというように、時々立ち止っては柱に頭を圧しつけ、壁に倚《よ》りかかる。が、苦しさは増し、やがて、どうにでもなれ! という風に洋燈を吹消してしまう。真暗闇の中で靴を脱ぐ音、寝床の掛布を動す音。ひっそりとする。やがて、苦しげな寝返りの気勢《けはい》。吐息。沈黙。いきなり、ひどい勢いでヨハネス寝床から飛び起る。素足でひたひたと床を踏み、衣裳箱の上の燭台に灯をつける。そして、蝋燭を引よせ、涙の跡のついた顔を鏡に写す。暗い鏡の面で、揺れる灯かげを受けた片影の顔が、不気味に見える。ヨハネス、緊張に堪えないように、わざと顔を動す。眉を動し唇を歪め、突然、
「あッ!」
鏡の中に、はっきり人間と猿の混血児のような動物の顔が見える。脅かされ、後じさり、息も塞《つま》って、
「猿!……猿!」
目も離さずに見るうちに、鏡面の動物の顔は、だんだん大きくなり、活々とし笑うように震えながら、鏡の中から抜け出して来る、ヨハネス、一歩、一歩と後退りながら、
「何だ! 貴様は、何だ!」
一切構わずその動物の顔は、刻々、延び、拡がり、迫って来る。ヨハネス、狂ったように扉の方に走《か》けつける。開かず。窓の方に走りよる。動かず、
「ああ! ああ! エッダ!」
両手を投げあげ、気絶して床に倒れる。震えつつ、しぼみつつ、奇怪な大きな顔は消え失せる――静かな、小さい蝋燭の瞬。―― 幕。[#「幕。」は地より1字上げ]
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
1979(昭和54)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月7日公開
青空文庫
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