阿父さんは今日も帰らないの?
エッダ もう二晩泊るんだって。――町から来た人が阿父さんの言伝てを持って来たわ。
ヨハネス 今度の市には、俺《わし》も行って見たいな。――エッダ、一緒に行かないか?
エッダ どうするの?
ヨハネス 賑やかな市街《まち》の様子を一緒に見るの――何か買ってあげるよ。
エッダ 詰らないわ。阿父さんは、町の女や男は、それは、それは、小ざっぱりとしているんだって云ってよ。もう種々《いろん》な物を一杯飾った店ばかりなんだって。――そんなところへ行って、たった一本|飾紐《リボン》位買ったって――それに、着物もありゃあしないわよ。
ヨハネス 衣裳なんぞは、俺もないけれど――綺麗なところを一緒に見るのはいいじゃあないか、皆俺たちの物ばかりだと想えばいい。
エッダ (おかしがって)ははははは、たった一クローネで? はははは阿母さん! ヨハンたら、たった一クローネで、市中の物を買い占めるんだって!
母親 (美味《うま》そうに湯気の立つスープを鉢によそい)さあさあエッダ。ヨハンは原っぱで腹を空かして来たんだよ、喋って許りいずに――。
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エッダ、ヨハネスと顔を見合わせ、忍笑い、肩を竦《すぼ》めてチロリと舌を出し、母親のところへ駆けつける。鉢を受取り、長|卓子《テーブル》の上に置き、
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エッダ さあ、お殿様! 御飯を召上って下さい。
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ヨハン、楽しそうに卓子につく。エッダ、駆けて棚からパンやその他二三の食物を運んで来、ヨハネスと向い合って、卓子の上に両腕をかけ坐る。ヨハネスの食べるのを頭を曲げ息をつめて見守り、一|匙《さじ》が終ると、意気込んで訊く。
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エッダ どう? 美味しくなくって?
ヨハネス まるで御馳走だね。どうしたの?
エッダ (唾をのむようにし)美味しいでしょう? 今日はね、昼からすっかり砂糖煮を拵えたの、その余だわ。
(一寸母の方を偸見《ぬすみみ》、悪戯《いたずら》らしく囁く)私、林檎《りんご》のスープが大好きでしょう? 阿母さんは儉約家《しまりや》だから、ちっとでも傷のないのは、皆丸煮にするって云うのよ。仕様がないから、私、そうっと地べたにおっことしたり、噛みついたりして、駄目を出したの。お蔭で、お前までこんなスープにありつけたんだわ。
ヨハネス 有難うよ。
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空腹と見え、ヨハネスせっせと物を食べる。エッダ感服して眺め、やがてさも大発見をしたように、大きな声で、
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エッダ ヨハン! まあ、どうしてお前、そんな猿みたいな顔をするの?
ヨハネス (首を擡げ、口の辺を拭き)何が?
エッダ パンを食べる時さ。なぜそんな猿みたいな顔をするの?
ヨハネス ほんとかえ?
エッダ (力を入れて頷き)ほんとだとも! まあ、私ちっとも今まで知らなかったわ。
ヨハネス (照れ)いそいで食ったから――。
エッダ (俄に好奇心で熱くなり)ね、ヨハン、もう一口食べて御覧よ。ね、ゆっくり。私こうやって見てみるわ。
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ヨハネス、少し赧い顔をし、工合悪そうに、ゆっくりパンの一切れを食べる。
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エッダ (熱心に見守り)ほら! ほら、ほら! まるで、本ものよ、ヨハン。まあ、お前ッたら!
母親 何だえ? 大騒ぎをして――
エッダ (得意げに)ヨハンが猿なのよ。
母親 馬鹿! お前の頭の螺旋《ねじ》がゆるんだんだろう、しっかりおし。
エッダ そうじゃあないわ。だって、ほんとにそうなんだもの。
ヨハネス (機嫌わるく)光線《ひかり》のせいだよ、エッダ。
エッダ (熱中し)いいえ! こっちから見たって、矢張り同じよ。(場所を更えて、なお見守る)
ヨハネス (神経質になり、顔を平手で撫で廻し)お前のように、ふっくらしていないからそう見えるんだよ。
エッダ (ヨハネスが真面目なので、不意と嬲《なぶ》る気になる)瘠《やせ》っぽちだって、猿と人間とは異うわよ。
ヨハネス (もう飲むことも、食うことも出来なくなり)エッダ! 止めてくれ(悲しそうに)俺は――……お前の好きなほど美《い》い男じゃあないが――まさか猿じゃないよ。俺の阿父《おやじ》だって俺を生んでくれた阿母《おっか》だって。
エッダ (笑い、小娘らしい意地悪さで)なあに?
ヨハネス 歴《れっき》とした村の衆だ。
エッダ そう? お前偉いのね。見たこともない親のことが判るの?
母親 エッダ。下らない口論はおやめ、人間が猿で堪るものか。
エッダ 猿が人間じゃあ、なお堪らない!
ヨハネス (決然と)お前が何と云ったって、俺が猿でないことはわかってるよ。見な。手だってお前のほど白くこそないが、同じ形だ。足だって、ほら。第一言葉が通じ
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