い出すに種もなかろうよ。何しろ、生れてたった五十日目に、死なれてしまったんだもの。
エッダ それあ、あの子は自分で何も覚えてはいないわ。でも、他人が云うんだもの――ヨハンが、自分が孤児《みなしご》で、阿母さん阿父さんがほんとの親でないのを知ったのだって、ハンスの婆さんに聞いたからよ。――(声を潜め)あの子の阿父さんが、狂って死んだってほんと? 阿母さんを捕まえて、泣いて逃げるのを、むりやり河へ突陥《つっぱ》めたって……ほんと?
母親 (身震いをし)止めておくれ。厭な話だ。――けれどもほんとはほんとだよ。阿父さんも、阿母んも、私達二人の若い時っからの友達で、一緒に踊ったり、氷の上を滑ったり……。楽い思いをしているうちに、かあさんは、お前の阿父さんと、一緒になり彼方《あっち》も彼方で家を持った――よく酒を飲む謡《うた》の上手な男だっけが。――恐ろしい恐ろしい。鬼が憑《つ》いたんだよ。
エッダ ヨハンは、誰からか、きっとそんなことでも聞いたのよ。だから。
母親 (ふと、戸外に耳を欹《そばだ》て)しっ!(指を立ててエッダに合図をする。さりげない調子で)もういい加減に休んだらいいじゃあないか? エッダ。
エッダ ああ。
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ところへ、ヨハネス、木履のような靴をはき、薄緑色の布の帽子、粗毛織の仕事着の装い下手の扉《ドア》から現れる。神経質そうな、細そりとした若者。
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母親 ヨハンかえ?
ヨハネス ああ。ただいま。
エッダ (糸車を片よせつつ、振返り、元気に)お帰り! どこに迷子んなっていたの?
ヨハネス (微笑み、エッダの丸い体の動くのを見ながら)戸外《そと》の風は、さっぱりするからね。
母親 (これも縫物をしまいながら)もうやがて、嚔《くしゃみ》の出そうな時節じゃあないか。雲を見るのも、夏だけにおしよ。……それはそうと、どんな塩梅だったね? あの渦は……。
ヨハネス ああ、あれの心配ならもう入用《いら》ないよ。すっかりぴんぴんして、他の羊どもと大|巫山戯《ふざけ》をやっていたもの。
母親 (棚から皿小鉢をおろしながら)よかったね。私は阿父さんの留守の間に一匹でも子供等に死なれちゃあ堪らないと思ったからね。(火をほげたり、鍋を掻き廻したりする)
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ヨハネス、エッダの傍に行き、
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ヨハネス
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