な警察のスパイどもは紳士をよそおいステッキをついて我らを襲撃するからである。革命的な活動をする若い女の口へステッキをつっこんで、負傷させ、その娘が叫ぶ声をこの耳できき、その血を見たからである。それを私は私の目で、警察の留置場で見た。留置場へは、プロレタリア文化活動に従うという理由にならぬ理由によって入れられた。勤労階級は歴史の合理性によりその歴史的任務を実践する過程においてつねに支配権力と抗争するのであるから、従って私ひとりが一本のステッキについて、ブルジョア作家には感じることのできないプロレタリアの実感を持つというのみでない。それは階級の実感である。この実感および実感を与えた現象を、その根柢にある政治性へまでつきつめて把握し、再びそれを芸術的概括として作品化した時、一本のステッキについての実感はプロレタリア文学作品となるのである。そして作品として大衆に働きかけ、その世界観の発展に役立つであろう。サークルへ行った。雑誌を編輯した。つかまって留置場へ行った。そこでステッキで拷問された労働者の娘を見た。と、いたずらにあれやこれやをちりぢりばらばらに認識し、それをかき集めたところで作品は書けない。われわれの努力は、より強固にされ、明確にされた政治性――党派性によって客観的に現実を理解し、文学運動においてつかむべき当面の環をはっきり知り、それを基準として全同盟の組織活動を整理し、深め、より精力的に企業・農村の大衆の中へ活動することに払われねばならない。同じ党派性、まがうかたなきプロレタリア性によって貪慾にかかる階級的実践の成果を芸術的概括にまで高め、発展せしめる努力がなされなければならない。組織活動と創作活動とはプロレタリア作家にとって二つの対立する作業ではなく、そのものにおいてきりはなすことのできないプロレタリア作家活動の二面の活動形態である。統一は、図式弁証法への定式化によって、二つの問題を正・反と対置したところから何か固定した形で結論として出てくるのでは決してない。
 鈴木清は論文の中で「作品はなるほど組織活動なしにも書き得る。然し問題は別してそれらの創作がプロレタリア文学として立派なものであるかどうかである。」その答は「遺憾ながら否である」と遠慮ぶかく書いている。われわれはもっと確信と責任とをもってこういい切らねばならぬ。真にプロレタリアートの解放と勝利との歴史性を
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