合でも呑気でいかん」などといりもしない断り書きをするほど、そんな不必要なお喋りをするであろうか! そういう作家であるからこそかんじんの村の集りで自分だけいい心持ちになって喋り、やがて「あたりを見廻して」みなが自分のまわりを離れ、区長や雑貨屋の方へかたまって彼をぬすみ見ているのに、「驚いた」りするのである。活々した階級的人間的生活の種々雑多の具象性に対し最も感受性が鋭く、個々の具象性の分析、綜合から客観的現実への総括を、あるいはその逆の作用をみずみずしく営み得るはずのプロレタリア作家ともあるものが、自分のしゃべる言葉に対する大衆的反応を刻々感得することなく、自身を「排斥された異端者」と文学的に詠嘆するに至っては、一箇の腹立たしい漫画である。
なるほど、村についた最初から彼プロレタリア作家は、K部落の窮乏がどんな外見をとって現れているかということは、こまかに書きとめている。外から部落へ入って来たものとして観ている。しかしそれらさまざまの外見をとって起る事件が、部落民の世界観をいかにかえつつあるかという大切な要因については、その重大さに必要なだけ細心で執拗な関心を払っていない。
作家は「悲劇が来た」と報じている。馬をとられた三次の女房の発狂にしろ、気が違った女房が役場に日参しているという現実の報告で終っている。現実の非惨事のこれだけの現象主義的把握は一応大衆作家でもやるのである。われわれに必要なのは、そのようにして女房まで発狂させられた三次が、戦争に対し、政府に対し、どんなにこれまでと違う心持を抱くようになって来たか。三次のその不幸はまた部落民の心にどんな影響を与えたか、そのことこそ必要なのである。この三次に強制献金は何と響くであろう。彼プロレタリア作家は暗い納戸で寓話化されたソヴェト同盟を幻想に描くよりさきに、三次の事件を想起すべきであった。しかし彼は村の神社の集りへ出て、鉈をふった平次郎は念頭においたが、三次が集りに来ているかいないかさえ問題にしていない。
同時に、その部落と彼との関係はどこまでも、「僕」「彼ら」あるいは「百姓たち」という関係におかれ、しかも「実行運動」に当って「僕」なるものが、部落の大衆にどんな感情でうけ入れられているかという、大切な計画をぬかしている。部落へついた第一日に「味噌又」のおやじに「点呼で? そうかそうか。そしてもう社会主義たらいう
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