へ戻りながら、
「子供、もっと放っといてやらなけりゃ」
と云った。
「愛想のいい子供なんて拵えたって、下らなかないの」
 久保は、家庭のない、健康のない、慰めのない、自分の生活の苦痛を、持ち前の強情さに還元して、その力で子供も同僚も押して行くらしく思えた。久保はいろいろな手段で蒐集した藤村《とうそん》の短冊など見せた。
 本館の三階に、相原の部屋があった。朝子はそこで小一時間話した。
 相原は、世間で重役風を形容する恰幅であった。ただ笑うと上唇の両端が変に持ち上って、歯なみよい細かい前歯と齦《はぐき》とがヒーンとすっかり見えた。その小さい口は性格的で、朝子にいい感じを与えなかった。
 相原は、先頃退職した或る男の噂をし、
「どうして罷めたのかね……いずれ何とかするように諸戸さんにも云おうと思っていたんだが」
と云った。朝子の知っている事実はそうではなかった。
「諸戸さんに、あなたが忠告なすったんじゃなかったんですか」
 相原は平気で、
「ふーん、そんな風に聞えてますかね」
と云った。相原の態度と、言葉とだけで見ると、朝子の知っている事実の方が間違っていると云うようであった。
 諸戸の処置を批評するようなことを云い、
「まあ、白杉さんも、一つ確りやって下さい。今にちょっと金も出せるようになるだろうから」
などと云った。朝子は黙って笑った。しんに弱気な小野心があるので、一人一人の顔を見ているうちは、悪感情を抱かせては損という打算が働く、相原はそういう種類の心を持っているらしかった。
 帰り途、朝子は人間の|生存の尖端《ラ・ポアント・ド・ラ・ヴィ》というようなことを深く思った。道徳や常識、教養などその人を支える何の役にも立たない瞬間が人生にある。またそういう非常の時でないまでも、我等を取巻く常識や、道徳や、それ等の権威の失墜の間に生きて行くに、何が心のよりどころとなるであろう。何で人間が人間らしく生きて行く道をかぎ分けるかと云えば、それは、草木で云えば草木を伸び育てる大切な芽に等しい、人間の心の中にある生存の尖端によってだ。朝子は昨夜詩を読んだときにも、例えば、

  自体を浄めるために結び合う!
  同じお寺の二つの黄金の薔薇窓が
  ちがった明るさの炎を交じえて
  たがいに貫きあうように。

 こんなに高貴で優しく美しい、深い感じを捉え得る詩人とは、どのような心であろう、と思った。彼は考えるのではない。感じるのだ。――感じるのだ。そして朝子は、その敏感な本源的な魂の触覚を、符牒のような生存の尖端という言葉にまとめて思ったのである。
 自分が、放埒の欲望を感じながら、何のためにか、のめり込まずいる。それはと云えば、正気は失っても、その尖端が拒絶するからだ。
 幸子が、昨夜立つとき、
「大丈夫?」
と訊いた、朝子は、ひとりでに、
「大丈夫でなくても、大丈夫だと思っちゃった」
と、捉えどころのないような返事をしたが、そうだ大丈夫ではないが、その尖端が感じ、選択し、何ごとか主張している間は大丈夫だ。その|生存の尖端《ラ・ポアント・ド・ラ・ヴィ》をも押しつつむ程大きな焔が燃えたらどうであろう。
 それならそれで、万歳だ。朝子は思いつづけた。自分は、そして、自分の生存の尖端は、その焔の央《なか》にあって我が生の歌を一つうたおう。
 朝子は、会って来たばかりの久保のこと、相原の生活、間には、新しく磨きたての磁石の針のように活々と光り、敏く、自分の内心に存在すると感じるものについて考え、味い、長い夕方の電車に揺られて行った。
 六時前後で、電車は混み、朝子の横も後もその日の労働を終って帰ろうとする職工、事務員などの群であった。或る交叉点で先の車台がつかえ、朝子の電車も久しい間立往生した。窓から外を眺めたら、甘栗屋があり、丁度その店頭の燈火で、市営自動車停留場の標識が見えた。黒い詰襟服の監督らしい髭のある四十前後の男が、そこに立っていた。何か頻りに見ている。鏡のようだ。よく視たら、彼の手にあるのは女持ちの一つのコムパクトであった。拾ったのだろう。彼は偶然停った満員電車の中から観ている者があろうとは心づこうはずなく、そのコムパクトを珍しそうに、とう見、こう見していたが、やがて蓋をあけ中についている鏡で自分の顔をちょっと見た。それは直ぐやめ、今度はコムパクトの方を鼻に近づけ白粉の匂いを嗅いだ。――トラックや自転車の往き交う周囲の雑踏を忘れた情景であった。
 その位長く彼は嗅いだ。



底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
   1951(昭和26)年12月発行
初出:「改造」改造社
   192
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